マリーアントワネットに下されたのは3つの罪でした。 ①国家を浪費したこと ②オーストリアに軍事機密を漏らしたこと ③息子であるシャルルと不適切な関係性を結んだこと 全ての内容に関して、マリーアントワネットは無罪を主張しました。 マリー・アントワネット(以下、アントワネット)は、1755年11月2日、オーストリアのウィーンに生まれました。ハプスブルク家というヨーロッパの名門の家に生まれたお姫様です。, アントワネットは、オーストリアとフランスの同盟のため14歳という若さでフランスに嫁ぎ、フランス王妃として生きました。しかし、フランス革命が起き、38歳という若さで王妃という地位にも関わらず、処刑されて亡くなってしまいます。, アントワネットは、悲劇の王妃として語られることが多く、たくさんの映画、ミュージカル、漫画などでその生涯が描かれてきました。オーストリアの名門ハプスブルク家からフランスの名門ブルボン家に嫁ぎ、時代に翻弄されたアントワネットですが、もしも普通の貴族の家に生まれていたなら、一人の女性として幸せな人生を送れたかもしれませんね。, オーストリアのハプスブルク家の皇女として生まれたマリー・アントワネットは、祖国オーストリアのため、長い間敵国であったフランス王家に嫁ぎます。何も分からない遊びたい盛りの14歳という若さで結婚し、18歳の時フランス王妃となります。, 当時のフランスは、以前からの財政赤字に苦しんでいた上、飢饉に襲われていました。貧しい暮らしを強いられていた庶民の怒りは、豪華な宮殿で贅沢な暮らしをしている国王達、特に敵国オーストリアから嫁いできたアントワネットへと向けられます。, そうした中フランス革命が起き、国王一家はヴェルサイユからパリに連れてこられます。革命の激化と逃亡に失敗したことが原因となり、革命裁判にかけられた国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、処刑されることとなりました。, 悲劇の王妃マリー・アントワネットは「本当に噂通りの悪女だったのか?」と疑問に思い真実のアントワネットの姿を求め、本や映画を見漁った私が筆をとります。, マリー・アントワネットに関する噂には様々なものがありました。当時民衆の間では「アントワネットが贅沢したために財政が悪化した」「たくさんの愛人がいる」「女友達はみなアントワネットと同性愛関係にある」など数多くの誹謗中傷が溢れ、それらがまるで真実のように語られていたようです。, 確かに、豪華なドレスを身に纏い、賭博やパーティーに明け暮れた時期があったのは事実です。しかし、自分のために城を建築するような贅沢はせず、子供達におもちゃを我慢させることもあり、財政を悪化させるほどの贅沢はしていなかったようです。当時の貴族、特に王妃という立場にいる女性としては常識の範囲内での贅沢だったのではないでしょうか。, また、宮廷内では貧困者のためのカンパを募ることもあったようです。また、母マリア・テレジアへの手紙には、小麦が育ち始め飢饉から脱することができることを喜んでいる内容もあり、貧しい者や国民に寄り添う姿も見られます。, なぜこれらの誹謗中傷が広まったのかというと、アントワネットは王妃になってから、ヴェルサイユの古い習慣や儀式を廃止させたり、口うるさい者たちを遠ざけ、お気に入りの貴族たちを周りに置くようになりました。そのためアントワネットに反感を持った貴族たちや、敵国ハプスブルク家出身であることが気に食わない貴族たちが、このような悪い噂を広めたのが始まりだと言われています。, マリー・アントワネットの死因は、ギロチンによる処刑です。1793年におこなわれた革命裁判で死刑を宣告されました。, 主な罪状は、国庫を浪費したこと、オーストリアに機密情報を漏らしたことなどです。フランスの財政は、ルイ16世以前から既に赤字であったこと、アントワネットがオーストリア人であったが故の推測に過ぎないなど、これらの罪状に真実味はなく、アントワネットを死刑にするために作られたものだったようです。, アントワネットは、処刑当日の朝、部屋係から朝食についての希望を聞かれた際「もう何もいりません。全ては終わったのです」と言ったと伝えられています。髪を短く着られ、後ろで手を縛られ白衣を着たアントワネットは、荷車に乗せられ処刑場であるコンコルド広場に連れて行かれました。, 処刑台に立ち、思わず処刑人の足を踏んでしまったアントワネットは、「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」と優しく伝えたと言われています。取り乱すことなく威厳を保ち、死の直前であってもその身のこなしは美しく優雅であったと言います。, マリー・アントワネットの発言として有名なものに「 パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というものがりますが、実は、この言葉をマリー・アントワネットが発したという歴史的な裏付けはなく、今ではマリー・アントワネットの言葉ではないことが明らかになっています。, では、この発言の出所はというと、ジャン・ジャック・ルソーの「告白」という自伝の中にあります。1740年頃、ルソーはパンを探していた時、「農民にはパンがない」と家臣から言われた高貴な女性が「それならブリオッシュを食べたら良い」というブラックジョークを言ったという話を思い出した、というエピソードがあります。, これを、マリー・アントワネットのことを良く思わない当時の貴族たちが、マリー・アントワネットの言葉として面白おかしく広めたのではないかと言われています。, フランス革命の勃発以降、マリー・アントワネットの子供である王子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズは、両親と共にパリのチュイルリー宮殿で過ごしていました。その後民衆によってチュイルリー宮殿が襲撃されると、家族と共にタンプル塔へと幽閉されます。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された後は、姉弟も引き離されてしまいました。, 王子であるルイ・シャルルは独房に幽閉され、わずか10歳で亡くなってしまいました。王女のマリー・テレーズは、約3年の幽閉生活の後、父方の従兄ルイ・アントワーヌと結婚し、その時々の情勢に左右されながら流浪生活を送ります。72歳のとき肺炎で亡くなりました。, 「私は恥ずべき死刑の判決を受けたのではありません。死刑は犯罪人にとって恥ずべきもの。これはあなたの兄上に会いに行くようにという判決なのです。良心の咎めがないので、私は平静な気持ちです。」, 「不幸な暮らしをしながら私たちに尽くしてくれる人々を見たならば、彼らの幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私のつとめだというのは当然のことです。」, 実は、アントワネットには、スウェーデン貴族のハンス・アクセル・フォン・フェルゼンと言う名の愛人がいたことは有名でした。出会いはアントワネットがまだ王太子妃だった1744年、パリの仮面舞踏会です。王妃となってからは一度距離ができるものの二人の関係は続きます。, フランス革命が起きてから、フェルゼンはヴェルサイユにとどまり献身的にアントワネットを支えます。国王一家の逃亡を計画し、実行したのもこフェルゼンでした。逃亡事件が失敗した後も、自らの身に危険が迫るのも顧みず、なんとかアントワネットはじめ、国王一家を助けられないかと奔走しました。, アントワネットが処刑されてからは、革命を起こした民衆を憎むようになり、最後はフェルゼンを嫌う群衆によって殺されてしまいました。フェルゼンは、アントワネットへの愛ゆえに生涯独身を貫いたと言われています。, マリー・アントワネットは、大変美しいブロンドだったそうです。しかし、「オーストリアへの逃亡が失敗しパリに連れ戻された時には、美しいブロンドが白髪になっていた」「処刑を宣告されたショックで白髪になってしまった」というエピソードがあります。, 白髪のメカニズムとして、白髪は色素を持たないまま伸びてくる、つまり、白髪は生えてくる前から白髪なのです。そのため、ブロンドや黒髪として生えてきた髪が、途中から自然に白髪になることは滅多にありません。そう考えるとマリー・アントワネットの髪が一夜にして白髪になったというのは、どうやら嘘のようですね。, では、なぜ「マリー・アントワネットは一夜にして白髪になった」というエピソードが伝えられているのかというと、白髪の原因は、遺伝や加齢の他にストレスも大きな原因だと考えられています。革命以降の身に迫る危険への恐怖、そして豪華な宮廷生活からのタンプル塔での幽閉生活、牢獄暮らしは、アントワネットにとって想像を絶するストレスだったに違いありません。, これらの極限のストレスの中白髪が増え、さらに処刑前に髪を短く切られたことで、突然白髪になったように見えたのかもせいれません。また、宮廷での生活とは違い、牢獄では十分に髪の手入れもできていなかったであろうことを考えると、美しかったブロンドがくすんで白髪に見えたのかもしれませんね。, マリー・アントワネットはこの事件に全く無関係で、むしろ被害者であるにも関わらず、この事件を境に、マリー・アントワネットに対する民衆の怒りはどんどん大きくなっていきました。, 1755年、オーストリアの名門ハプスブルク家の皇女として生まれました。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世、母は女帝マリア・テレジアという生粋のお姫様です。, 幼少期は、勉強よりも音楽やダンスが得意で、とても愛らしくお転婆な女の子だったようです。3歳年上の姉マリア・カロリーナと仲がよく、ウィーンの宮殿で両親の愛情をたっぷり受け、自由に伸び伸びと過ごしました。, アントワネットが7歳のとき、宮殿の演奏会にやってきた6歳のモーツァルトと出会います。宮殿ではしゃぎすぎて転んでしまったモーツァルトのところに、駆けよって手を差し伸べたのがアントワネットだったと言われています。その時、モーツァルトがアントワネットにプロポーズした話は有名ですね。, 当時のオーストリアはプロイセンの脅威にさらされており、マリア・テレジアはオーストリアを守るため今まで敵対していたフランスと早急に同盟を結ぶ必要がありました。そこで、フランス王太子ルイ・オーギュストと娘マリー・アントワネットの結婚を画策します。そうしてアントワネットは14歳の時、フランス王室に嫁ぎました。, 実は、当初フランスに嫁ぐ予定だったのは、マリー・アントワネットではなく、姉のマリア・カロリーナだったと言われています。しかし、ナポリ王に嫁ぐ予定だったその上の姉マリア・ヨーゼアが急逝したため、マリア・カロリーナがナポリ王に、そして、マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐくことになりました。, フランスに嫁いだアントワネットの最初の試練が、国王ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との対立でした。母マリア・テレジアが娼婦や愛妾を嫌っていた影響で、アントワネットも元娼婦であるデュ・バリー夫人に嫌悪感を抱きます。, 当時のフランス宮廷では、身分の低い者から身分の高い者に声をかけることを禁じていました。王太子妃であるアントワネットはフランスで一番身分の高い女性であったため、国王の愛妾とはいえ元娼婦であるデュ・バリー夫人は、アントワネットから声をかけられるのを待たなくてはなりませんでした。そこでアントワネットは、デュ・バリー婦人を無視し続けることにしたのです。, しかし相手は国王の愛妾です。怒ったルイ15世がオーストリアに圧力をかけたことで、ついにアントワネットが折れ、デュ・バリー夫人に声をかけました。この出来事にアントワネットは、「王太子妃が娼婦に敗れた」と大変ショックを受け、後に、母マリア・テレジアに宛てた手紙に「この出来事で深く名誉を傷つけられた」と書いています。, 1774年、国王ルイ15世が天然痘のため崩御すると、夫がルイ16世として即位し、アントワネットはフランス王妃となります。この頃のアントワネットはお忍びで舞踏会に行ったり、賭博をしたりと遊びに夢中になっていました。, ルイ16世とアントワネットの夫婦仲は悪くはなかったようですが、ルイ16世の身体的な理由でなかなか子供に恵まれませんでした。そのことで宮廷中の好奇の目にさらされていたアントワネットは、遊ぶことでその寂しさや孤独感を紛らわせていたのではないか、といわれています。, 結婚後7年経った1977年、ようやくルイ16世との間に長女マリー・テレーズが誕生しました。次いで1781年に長男ルイ・ジョゼフ、1785年に次男ルイ・シャルルが生まれます。, 子供が生まれてからのアントワネットは、これまでの生活から一変し、プチ・トリアノン宮で子供達と静かに過ごし、教育熱心な良き母であったと言われています。, 1775年からアメリカ独立戦争が起きます。フランスは、敵国イギリスを弱体化させるチャンスととらえ、1775年独立戦争に参加します。しかし、戦争参加によってもともと財政赤字であったフランスの国庫の状況はさらに悪化し、アメリカにおけるフランスの領土も取り返すことができませんでした。, アメリカ独立戦争への参加は、結果として10億リーブルもの負債による財政悪化と政情不安を招き、絶対王政を揺らがせてしまいます。フランス革命の一つの要因となってしまいました。, アントワネットが王妃になってから巻き込まれた一番大きな事件が、1785年に起きた首飾り事件です。アントワネットに高額なダイヤモンドの首飾りを売りつけようとして失敗した宝石商が、王妃の親友だと嘘をつくジャンヌという夫人に騙された詐欺事件です。, 既に民衆の間で評判が悪かったアントワネットは、事件とは無関係にも関わらず「事件の首謀者はアントワネットである」と誤解され、一層嫌われるようになってしまいました。この事件もまた、フランス革命のきっかけとなったものの一つです。, 1789年、重い税金や飢饉に苦しむ民衆は、絶対王政の象徴であるバスティーユ牢獄を陥落させ、ここにフランス革命が勃発しました。その後、民衆は食べ物の供給を訴え、パリからヴェルサイユ宮殿に向かって行進し、暴徒化した民衆の一部はヴェルサイユ宮殿になだれ込みました。, この事件で、マリー・アントワネットたち国王一家は、ヴェルサイユ宮殿からパリのチュイルリー宮殿に移され、議会もパリに移りました。国王一家は、監視下に置かれながら過ごすようになります。それまでアントワネットの周りにいた取り巻きの貴族たちは、王妃を見捨てるかのように次々とフランス国外に亡命していったといいます。, 革命の進展に身の危険を感じたアントワネットは、夫ルイ16世を説得し、兄レオポルド2世を頼るためオーストリアへの逃亡を計画しました。1791年6月20日の深夜、平民に扮装した国王一家は宮殿を脱出し、国境を目指します。しかし、数々の不手際が重なり、国境まであと一歩のヴァレンヌという町で見つかってしまい、パリに連れ戻されました。, 国民は自分達を見捨てて逃げようとした国王に対して怒り、同時にルイ16世は反革命派であることが明らかになったことで、これまで国王を養護していた人達も反国王となり、革命はますます勢いを増しました。, 1789年、フランス革命が起こる直前、王太子ルイ・ジョゼフがわずか7歳で亡くなりました。生まれた時から身体が弱かったルイ・ジョゼフは、1786年結核に感染します。その後も発熱を繰り返し、結核菌による脊椎カリエスで亡くなってしまいました。ルイ・ジョゼフは、大変聡明な賢い子供で、国王夫妻はルイ・ジョゼフの教育に大変熱心であったと言われています。, 1793年10月、革命裁判においてマリー・アントワネットに死刑が宣告されました。この時、夫であるルイ16世は既に処刑され亡くなっています。ルイ16世の裁判では、多くの議員が出席し議論したにも関わらず、アントワネットの裁判に議員の姿はなく、既に決まっていた死刑のための形だけの裁判であったと言われています。, 1793年10月10月6日、髪を短く着られ、後ろ手に縛られたアントワネットは荷車に乗せられ処刑場に連れて行かれます。パリのコンコルド広場において、ギロチンによる処刑がおこなわれました。, マリー・アントワネットに関する数々の噂や批評などを資料を元に考察しがら、一人の人間としてのマリー・アントワネットについて書かれています。マリー・アントワネットを知るにはこの本から、というくらいの一冊です。, アントワネットが嫁いでからマリア・テレジアが亡くなるまでの間、毎月交わされた手紙の全文が分かります。長い間敵国であったフランスに嫁いだ娘を心配する母親の気持ち、母親に嘘をついてしまう娘の気持ちなどが良く分かり、面白いです。, 数々の美しい写真から、マリー・アントワネットやルイ16世など当時の人達がどのような生活を送っていたのかが分かります。ヴェルサイユ宮殿やルーブルの学芸員や研究者たちが書いた本というだけあって、おすすめです。, 処刑直前にあっても王妃としての威厳と美しさを失わないアントワネットに感動します。また、ヴェルサイユで目撃されたというアントワネットの姿が幸せそうであったのなら、アントワネットのファンとしては嬉しいですね。, マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿でどのような生活をしていたのかが美しい映像とともに描かれています。ただし、あくまでもフィクションとして楽しむ映画です。歴史的な部分はあまり描いていないので、マリー・アントワネットの時代の美しい宮廷生活を知りたい方におすすめの映画です。, 1937年に公開された映画で、モノクロです。しかし、アントワネットの美しさ、ヴェルサイユ宮殿のきらびやかさは十分に伝わってきます。シュテファン・ツヴァイクの原作を忠実に映画化したもので、タイトル通りアントワネットの生涯を描いています。これからアントワネットを知りたい方におすすめです。, ミヒャエル・クンツェ&シルヴェスター・リーヴァイの大作の新演出版です。マリー・アントワネットと、庶民の娘マルグリット・アルノー、二人の“MA”の物語が描かれると同時に、アントワネットとフェルセンの悲恋が美しく描かれます。, 今回の記事では、マリー・アントワネットの38年の生涯について解説してきましたが、いかがでしたか?, 私は、小学生の時「ヴェルサイユのばら」を読んで、マリー・アントワネットに興味を持ちました。その後多くの本を読み、映画を見てきた中で、本当のアントワネットは優しく愛らしい人だったのではないかと確信し、その魅力にはまってしまいました。, マリー・アントワネットに関しては賛否両論ありますが、今回の記事でアントワネットの魅力に一人でも多くの方が気づいてくれるといいな、と思います。, レキシル編集部です。 ◼︎ 歴史に対して一言 ◼︎ 好きな歴史上のジャンル マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 1755年11月2日~1793年10月16日. マリー・アントワネットの生涯と人生にまつわる12の話を紹介していきます。混乱期に生まれて時代に翻弄されたと言っても過言でない、オーストリア生まれのフランス王妃の話です。「マリー・アントワネット」の名前を聞いたことがある人が多いと思います。 Je ne l'ai pas fait exprès.) [9]」だとされている。, 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットのときには顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れたという説もある。, 12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[10]。, 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注釈 1]に葬られた。のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注釈 2]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世とともに改葬された。, 『世界大百科事典』においてアントワネットは、「悲劇的」な王妃ではあるが「嫁して夫を軽んじ、王妃でありながら国民を裏切った」と評されている[11]。, 資本主義革命(フランス革命)が開始された理由は、君主制打倒のためではなかった[12]。革命当初のスローガンは「国民、国王、国法!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が憲法(国法)のもとで協力すれば、世の中を改革できるというものだった[12]。一部に流血が発生しても、革命家たちは君主主義者だった[12]。革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、ロベスピエールにさえ相変わらず当てはまっていた[12]。しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった[13]。, アントワネットは非常に個性が強かった[13]。当時の君主主義・封建主義の社会において「期待される王妃像」とは、君主にそっと寄り添うような女性だった[13]。しかし彼女は、最高に「高貴」な出自・身分について揺るぎない矜持を誇ると同時に、「近代的女性」としての顔も持っていた[13]。この王妃は、普通の女の子として生きたいという願望を持ったが、そのように振る舞うことでさまざまな摩擦が生じ、徐々に評判は悪化した[13]。, アントワネットは、王妃としての義務を果たさなければならぬと強く思ってはいた[13]。その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された[14](生前の彼女はよく、遊び好きで浪費家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるエゴイストであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事を抱えこんだ理由を説明できない[13])。彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ[15]。その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった[15]。, アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった[16]。フランス革命前の時代では、国家は王家の「私有財産」のようなものであり、君主が好きにしてよかった[16]。アントワネットは、そのような時代に生まれ育った[16]。したがって、君主権(≒反民主主義的な権力)が「神聖にして侵すべからず」であるという思いは彼女にとって「自然」だった[16]。, そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた[17]。彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「人民主権」ではなく「君主主権」でなければならず、ほかの人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった[18]。アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした[18]。, 一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった[18]。彼女の考えでは、立憲君主制(≒ブルジョア革命で成立した君主制)は長続きしない[18]。実際、革命後にナポレオン時代を経てフランス復古王政が発生したため、その点では彼女の考えは当たっていた[18]。とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった[18]。, マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。フランスの情報を実家であるオーストリア帝室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。, マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。, しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している[19]。ルソーの『告白[20]』(1766年ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年ごろ)のことという。, アルフォンス・カー(フランス語版)は、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父である神聖ローマ皇帝フランツ1世が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。, 現代のフランスにおいて、この発言は今なおマリー・アントワネットを象徴するものだと信じられている。2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のマリー・アントワネットのようだと報じられた[21]。, 幼いマリー・アントワネットの文学・歴史・フランス語・フランス風習などの教育には、ヴェルモン神父が派遣されてきた[22]。この33歳の神父は博士号を取得し、図書館司書でもあった[22]。, 神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、学科の勉強はあまり成果が上がらず、5分以上集中させることもできなかった[22]。彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたため、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった[23]。ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている[24]。, ヴェルモン神父はアントワネットに宿題を課すことや、まとまった講義をすることは早々に諦め、脈絡のない会話をするしかなかった[24]。フランス語については確実に進歩していったが、知識や教養は非常に心もとなかった[25]。マリア・テレジアはアントワネットの性格を、次のように把握していた[26]。, アントワネットの教育がいかに不完全であるかをよく知っていた母マリア・テレジアは、このままでは娘は「破滅」するかもしれないとさえ心配していた[27]。マリア・テレジアは娘に、フランスで生活するにあたっての基本的心構えから始まり、ファッション、ヘアスタイル、読書指導、さらには普段の生活態度に至るまで、, アントワネットは、ルイ15世の死から4日後には、王妃になれた幸運を無邪気に喜び、母親へ次の通り書いた[30]。, これに対してマリア・テレジアは、王妃の勤めについての自覚が足りない娘の行く末を危惧していた[30]。マリア・テレジアの語ったところでは、いずれ娘は「完璧に偉大な存在になるか、非常に不幸になるか」である[30]。そして, 祖父であるルイ15世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これから宮廷を取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした[31]。, 宮廷では、アントワネット主催で定期的に舞踏会が開かれるようになった[31]。パリからプロの劇団を招いて宮廷で上演することは以前から週2回行われていたが、アントワネットはそれを週3回に増やした[31]。しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではオペラは上演できなかった[31]。そのため舞踏会、劇、オペラなどのため頻繁にパリへ出かけた[31]。夫であるルイ16世が同伴していれば問題はなかったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若い貴公子たちと行くことをずっと楽しんでいた[32]。しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよく明け方になっていたため、人々から相当の顰蹙を買った[32]。, ほかに競馬や賭博にも熱中しており、賭け金が大きかったため借金をすることもあった[32]。, 王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、流行の最先端を行こうともした[32]。デザイナーのローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した[32]。パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、, アントワネットにとってプチ・トリアノンは自由な空間であるだけではなく、もっと「自然」である必要があった[33]。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[33]。アントワネットにとって, トリアノンの一連の工事事業には、土木・造園・建築関係業者に加え、一流の芸術家や優秀な工芸職人が大量動員された[35]。その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった[35]。, トリアノンはアントワネットにとって、「理想の世界」または「夢を実現させた世界」だった[36]。そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた[36]。かかった費用が大きかったうえに、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった[36]。, 首飾り事件では、ロアン枢機卿に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた[37]。彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた[37]。彼女は激怒して泣きくれ、フランス全体について, と非難し、急にフランス嫌いになった[37]。首飾り事件は図らずして、絶対君主制の凋落の一端を世間に晒した[38]。, フランス革命の本格的始まりは1789年7月14日、バスティーユ牢獄の陥落であるとされる[38]。しかし革命的雰囲気が醸成されたのはそれ以前のことで、1787年2月に開催された名士会がきっかけだった[38]。名士会は財政問題に対処するため、ルイ16世によって召集された[38]。, 国家財政が危機的状態にあることは、ルイ16世即位当初から政府内では意識されていたが、ほとんどの人々はそうではなかった[39]。アントワネットもその一人で、のちに, と語っている。こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、従来の世の中がいつまでも続くと思っており、既得権益をさらに増大させようとしていた[39]。, 1787年ごろ、アントワネットは以前とは異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、そのころには「赤字夫人」と呼ばれるようになっていた[40]。パリでの評判があまりに悪くなっていたため、警視総監は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した[40]。, パリで武装蜂起したブルジョア(=市民・資本家)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ16世はパリとの和解の道を選んだ[41]。マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、, 1790年5月ごろのアントワネットは、ルイ16世を「唯一の指導者」と呼びながら、希望的観測を持ってもいた[43]。, 人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図の純粋さを知らしめるしかありません。, アントワネットはパリの人々のほかに、亡命貴族の動向も気にしていた[44]。早々に亡命し、外国を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた[45]。彼らはアントワネットを「民主主義者」とみなしていた[46]。彼らのような反革命家にとって、民主主義とは罵りの言葉である[46]。アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった[46]。, 一方アントワネットは、少しでも進歩的な人物であるなら誰でも「過激派」と呼んでいた[46]。たとえば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた[46]。確かに、ラ・ファイエットは啓蒙主義から影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた[46]。ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の英雄」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界(アメリカ)と旧世界(ヨーロッパ)のこと)[46]。革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった[46]。, 亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた[46]。こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった[46]。彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった[46]。, アントワネットとルイ16世はミラボーを頼るほうが現実的だったが、2人はこれまで通りフェルセンやブルトゥイユを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた[47]。ミラボーは、革命に依拠したうえでの君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定したうえで成り立つものだった[47]。, バスティーユ陥落以降、アントワネットが「友人」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った[47]。国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、2人は毎日のように会うようになった[47]。「恋」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない[48]。アントワネットは彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとっていい結果をもたらさなかった[48]。, と語っており、これは彼女の本質を突いている[51]。アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた[51]。, アントワネットは政治的教育・訓練を一切受けたことがなかった[51]。彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出すということはできなかった[51]。彼女の方針はもっぱら、, から導き出されていた[51]。王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった[51]。その最たる例が、このヴァレンヌ逃亡事件とされている[51]。アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた[52]。, 君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した[53]。「国王は外国の軍隊に頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった[53]。この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった[53]。それまでの君主は、空気と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった[54]。しかし、君主がいなくなった5日間、人々は変わらず生活できており、日は昇って沈んだ[55]。君主がいなくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった[53]。, アントワネットは、ピルニッツ宣言によってヨーロッパ諸国が軍事力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ[56]。革命が潰されて身分制度的差別や領主への年貢が復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた[56]。ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした[56]。, アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いのほかに、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(民衆の活動家や革命家)を処罰したいという思いもあった[57]。「国王のもとに結集するよきフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた[57]。, 君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「王権神授説」は、革命によって否定された[58]。ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、立憲王政が成立した[58]。アントワネットは、近代的な憲法を受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは, であり、君主国に「不幸」や「滅亡」をもたらすものでしかなかった[59]。彼女の見るところでは、革命前の絶対君主制が正しく、「人民主権」は絶対に容認できなかった[60]。人民が君主の上にあるような「人民主権」は誤りであり、君主が人民の上にあることが正しい秩序である、というのが彼女の考えだった[61]。, 上記の通り、ウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。, 後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。, なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。, 2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。, マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。, 入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。, 家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式(新古典主義)の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。これらは現在もルーヴル美術館に展示されている。, 当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[63]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタン(英語版)という新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。, 何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。, 即位後最初の数年間を過ぎてからは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになった[64]。, このころベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズをパニエを着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインしている。, 身長は154cm[65]。

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