舞台は第一次世界大戦下のヨーロッパ。. 今、あなたは幸せだと思う? 本日限定!ブログスタンプ あなたもスタンプをgetしようはい幸せです私はおばあちゃん子でした中学生になるまで一緒のベッドで寝て… 2003年放送『明日のナージャ』の続編二次創作小説。. 17,783 characters. The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔の戦争:スーダン侵攻従軍記) , 『A History of the English-Speaking Peoples (英語圏の人々の歴史)』1956-1958年。4巻。第二次大戦前から著しており、英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり, 『チャーチル―第二次世界大戦の指導者』 山上正太郎、清水書院「センチュリーブックス 人と歴史シリーズ〈西洋〉」、1972年。, 『チャーチルと第二次世界大戦』 山上正太郎、清水書院〈人と思想〉、1984年、新装版2018年。上記の改訂版。, 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤佐智子訳、. 第一次世界大戦. 第1章 明後日のナージャ. 共に育った仲間たちは既に去り、先生たちもいなくなって……。. 第一次世界大戦に勝利したイギリスは敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を国際連盟からの委任統治領という形で獲得したため、大英帝国は過去最大の領土を領有するに至った[387]。しかしそれに伴い問題も多く抱えることになった。, イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱(アラブ反乱)を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた(フサイン=マクマホン協定)。これによりハーシム家のファイサル王子らアラブ勢力は『アラビアのロレンス』として知られるイギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンスらとともにトルコと戦った。一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、パレスチナにユダヤ人国家建設も認めており(バルフォア宣言)、さらに他方でフランスとの間に「肥沃な三日月地帯」を英仏で分割統治するというサイクス・ピコ協定も結んでいた(三枚舌外交)[389][390]。戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)とイラク(イギリス委任統治領メソポタミア)はイギリス委任統治領、シリア(フランス委任統治領シリア)とレバノン(フランス委任統治領レバノン)はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった[390][391]。, これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にカイロ会議を主宰した[390]。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄アブドゥッラー1世もパレスチナから切り離したトランスヨルダン王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、またイランとの通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった[392]。またイラクに駐留するイギリス陸軍を撤退させ、変わって空軍が秩序維持にあたった[390]。, 一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた[393]。この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた[393]。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった[394]。, 大戦中の1916年4月にダブリンでアイルランド民族主義者が蜂起を起こすも鎮圧され、その指導者が即決の軍事裁判で処刑されるという事件があった(イースター蜂起)[395]。この事件を機にアイルランド民族主義が燃え上がり、1918年の総選挙でもアイルランド国民党に代わって急進的なアイルランド独立政党シン・フェイン党が躍進した[396][366]。, シン・フェイン党はロンドンの議会に入ることを拒否し、ダブリンに独自の国民議会を形成した。アイルランド義勇軍の武装抵抗も激化し、まもなくシン・フェイン党の政治的抵抗と合流した[397][要文献特定詳細情報][398]。ロイド・ジョージ政権はこうした運動を白色テロで厳しく弾圧し[399]、シン・フェイン党も禁止処分とした[400]。だがシン・フェイン党は屈さず、ゲリラ戦を続行し[400]、イギリス人官吏に攻撃を加えていった[401]。, 国王ジョージ5世の北アイルランド訪問で対立関係が一時的に緩和して休戦が成り、その間の1921年10月からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府とアーサー・グリフィスやマイケル・コリンズらシン・フェイン党代表者の交渉の場が設けられた[402]。この交渉の際、コリンズはイギリス政府が自分に5000ポンドの懸賞金をかけたことを批判したが、それに対してチャーチルは「5000ポンドもの価値をつけられれば十分ではないかね。私は25ポンドだぞ。」と述べ、ボーア戦争で捕虜収容所から脱走した際に付けられた自分の懸賞金の額を引き合いに出したという[402]。, この交渉の結果、アルスターのうち統一派が多い6州にはイギリスに残るかアイルランドに加わるかの選択権を残しつつ、それ以外のアイルランドは大英帝国自治領アイルランド自由国として独立することで妥協に達した(英愛条約)[402][399][403]。その後この条約の是非をめぐってアイルランド内でアイルランド内戦が勃発するも条約支持派が勝利している[402]。, チャーチルは庶民院でアイルランド自由国法案の説明を行い、その中で「半世紀にわたるイギリス政治の苦しみであり、対外的にはアメリカや自治領諸国との関係悪化の原因だったアイルランド問題がこれで消滅する。」と宣言した[402]。だが保守党のうち60名ほどの議員はこの法案に反対した[402]。未来の保守党党首であるスタンリー・ボールドウィンは、この法案は自由党ロイド・ジョージ派と保守党内法案賛成派を統合して新たな党を作ろうというロイド・ジョージの布石ではと疑いを持つようになった[403]。, 敗戦国トルコはセーヴル条約によりギリシャに領土の一部を引き渡すことになったが、トルコ国民軍を率いるムスタファ・ケマル・パシャはこれを無視してギリシャ占領軍に攻撃を仕掛けて駆逐した(希土戦争)。のみならずケマル軍は1922年9月にダーダネルス海峡(第一次世界大戦後、中立化されていた)付近まで侵攻してきて、チャナクに駐屯するイギリス軍を攻撃する構えを見せた(チャナク危機)[404][405][406]。, ロイド・ジョージ首相は熱烈にギリシャを支持し、現地イギリス軍に持ち場の死守を命じた。チャーチルははじめトルコに同情的だったがケマルの恫喝的な態度を見て、ロイド・ジョージの方針を支持した[404]。チャーチルの主導で大英帝国自治領にも対トルコ開戦のときには出兵することを求める政府決議が出された[407][405]。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略を辞めない場合にはイギリス地中海艦隊を派遣することを決定し、ギリシャにも支援を約束し、ケマルに最後通牒を突きつけた[407]。イギリスの強硬な態度を恐れたケマルはギリシャとの休戦に同意し、希土戦争を終結させた[408][405]。, しかし、戦争に飽きた世論は政府の好戦的な態度を批判し、1921年3月に病で引退していた元保守党党首ボナー・ローは「イギリスは世界の警察官ではない」と述べた[408]。大連立相手の保守党も連立政権離脱を決議し、ロイド・ジョージは辞職し、議会を解散した[408]。ただし、ボナー・ロー退任後の保守党党首オースティン・チェンバレン(ジョゼフ・チェンバレンの長男)は大連立維持派だった。チェンバレンは1922年9月の閣議でのロイド・ジョージ首相の早期解散方針にも賛同を与え、保守党内でひんしゅくを買った[409]。10月19日、保守党社交界カールトン・クラブで開催された保守党庶民院議員会合で一議員にすぎなかったスタンリー・ボールドウィンが大連立解消の動議を提出したところ、185対88で可決されるに至った。前党首ボナー・ローも連立解消に賛成していた[410][411][412]。これを受けてチェンバレンは保守党首職を辞し、首相ロイド・ジョージも辞職した[411][413]。, ボナー・ローが組閣の大命を受諾した[408]。ボールドウィンら保守党内の反大連立派はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争を起こして解散総選挙することで自分たちに有利な議会状況を作ろうとしているのでは、という疑いを持っていた[414]。チャナク事件はきっかけに過ぎず、自由党と保守党の大連立はすでにガタが来ていた。保守党議員たちはロイド・ジョージのワンマン政治にうんざりしていたし、アイルランド自由国に承服しかねる思いの者も多くいた。このまま大連立を組んでいたら保守党は次の総選挙で惨敗し、党が分裂すると考えている者もいた[415][416]。, 首相となったボナー・ローは1922年11月にも解散総選挙に打って出た[417][418]。, チャーチルはこの頃、盲腸の手術のために入院中だったが、これまで通りダンディー選挙区から出馬した。しかし今回は自由党候補がもう一人出馬していた。また労働党候補として出馬したエドモンド・モレルとは連携が成らず、彼は対立候補として出馬した。結党されたばかりのイギリス共産党も対立候補を送りこんできた。禁酒主義者のスクリムジャーも再び対立候補として出馬した[419]。チャーチルは病室から「私は自由党員、自由貿易主義者として出馬するが、有権者におかれては進歩的で理性的な保守党員とは協力していただきたい」という選挙区民に向けてのメッセージを出した。このメッセージの効果もあり保守党は対立候補を立てなかった[419]。, チャーチルは投票日直前に椅子ごと運ばれて選挙区入りし、自由貿易擁護や反共の演説を行ったが、「好戦派閣僚」との噂が尾を引き、選挙区民からの評判は悪かった[420]。また若い共産党員たちが民謡を詠って演説を妨害するとチャーチルは「この年端もいかぬ爬虫類ども」と怒鳴ると、若者たちは「赤旗」を歌ったり、「アイルランド共和国万歳」と叫んだ[421]。選挙の結果、スクリムジャーとモレルが当選し、チャーチルは4位で落選した。これについてチャーチルは「私は一瞬にして、官職、議席、党、おまけに盲腸を失ったのである」と回顧している[421][422]。, 選挙全体の結果は保守党が345議席、労働党が142議席、自由党ロイド・ジョージ派が62議席、自由党アスキス派が54議席を獲得し、保守党の大勝に終わった[421]。, 落選後、南フランスのカンヌへ移住し、第一次世界大戦に関する著作『世界の危機(The World Crisis)』の口述筆記と絵を描くことに精を出した[423][424]。この著作は「世界史を装ったチャーチルの自伝」「ダーダネルス作戦自己弁明の書」などの批判もあったものの[425][423]、チャーチルにかなりの印税をもたらし、これによってケント州のチャートウェル邸と広大な土地を購入することができた[426][427]。以降チャーチルは週末にはこのチャートウェル邸で過ごすようになった[427]。子供たちもこの屋敷が気に入った[428]。, 1923年5月にボナー・ローが喉頭癌で首相を退任した。後任の候補としてボールドウィンかカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の二人が考えられたが、国王ジョージ5世は、庶民院を優先してボールドウィンに大命を与えた[429]。しかし同年11月、党を固めきれていなかったボールドウィンは、党をまとめる効果を狙って、また世論も保護貿易に傾いてきたと判断して、関税改革を掲げた解散総選挙に打って出た[430][431]。, チャーチルはこの選挙にレスター・ウェスト選挙区の自由党候補として出馬した。チャーチルは保守党が対立候補を立てるのを控えてくれるのでは、という期待を抱いていたが、保守党は対立候補を立ててきた。労働党からの攻撃も激しく、とりわけダーダネルス作戦に関する『世界の危機』第2巻が出版された直後であったため、ダーダネルス作戦を批判する野次が盛んに飛んだという。結局、労働党候補が勝利し、チャーチルは再び落選した[432]。, この総選挙では自由党ロイド・ジョージ派とアスキス派が自由貿易擁護で共闘していた[433]。選挙戦で保守党は食料には関税をかけないと約束していたが、自由党と労働党が煽った結果、結局「高いパンか安いパンか」が争点になっていった[434]。その結果、保守党は87議席も落として257議席となり、労働党は191議席、自由党は151議席を獲得し、どこも単独では政権を作れない状態となった[433][434]。, 自由党の指導者に復帰していたアスキスは、労働党政権を誕生させる意向であった。チャーチルは「社会主義政権など誕生させたら重大な国家危機が生じる」としてこれに強く反対し、保守党・自由党連携による反社会主義政権の樹立を求めたが、受け入れられなかった。ここに至ってチャーチルは反社会主義の信条を失わぬため、自由党を離党する決意を固めた[435]。, 1924年1月に労働党議員提出の内閣不信任案が自由党の賛成を得て可決され、ボールドウィンは辞職し、かわって労働党のラムゼイ・マクドナルドが大命を受け、史上初の労働党政権が誕生した[434]。一方総選挙に敗れたボールドウィンは同年2月に関税改革を保守党の方針から取り下げた。これにより自由貿易主義者のチャーチルも保守党へ戻りやすくなった[435]。, 3月のウェストミンスター寺院選挙区で行われた補欠選挙に「無所属の反社会主義候補」として出馬した。ここは保守党のニコルソン家の地盤であった。チャーチルは「私は保守党と争うつもりはない。それどころか私は保守党こそが反社会主義者の集合場所になるべきだと考えている」と演説した[436]。保守党内では正式な保守党候補がいる選挙区にチャーチルが出馬したことへの怒りの声も多かったが、チャーチルの反社会主義姿勢を評価する声もあり、複数の保守党議員から選挙協力を受けた[437]。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党大物政治家もチャーチルに推薦書を書いてくれた[438]。だが選挙は僅差でニコルソン家の者の当選となり、チャーチルは三度目の落選を喫した[437][438]。, チャーチルは保守党に接近を続け、食料以外の関税導入にも前向きになっていった。1924年9月、エッピング選挙区の保守党候補に指名された[439]。ただしチャーチルが正式に保守党員になったのは1925年であり[440]、選挙区への立候補届け出では党派として「立憲派」という保守党組織がよく使用する名称を使っている[441]。, マクドナルド労働党政権のソ連との国交正常化[注釈 10]やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策に保守党や自由党は批判を強め、10月8日に自由党のアスキスが親ソ政策批判動議が提出され、保守党が賛成し可決され、マクドナルド内閣は解散総選挙に打って出た[443][444]。, この選挙でもチャーチルは激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者がブリタニアに着せようとしているドイツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の盾は汚らしい赤旗ではなく、ユニオン・ジャックの旗でなければならない」と演説した。エッピング選挙区は反共主義の機運が強く、チャーチルの反共演説も選挙区民を熱狂させ、圧勝した[445]。投票日直前にジノヴィエフ書簡問題が発生して有権者の社会主義への恐怖が高まっていたことで全国的にも反共を掲げる保守党が圧勝している(保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席)[446]。, 1924年11月4日にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足した[447]。, ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージと組んで保守党と自由党の中道派による「中央党」を結成する事態をかねてから恐れていた。そのためチャーチルを閣内に取り込んでおこうと考え、大蔵大臣という重要閣僚職を彼に提示した。チャーチルはそれほど高い地位の閣僚職に任命されるとは思っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」と聞かれた時、はじめランカスター公領担当大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思ったという。そのため、チャーチルは「ランカスターですか?」と聞き返したと言う。だが大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)のことだと聞かされた時、感動のあまり、チャーチルの目から涙が溢れたという[448][449]。この閣僚職は父ランドルフ卿が務めていた地位であり、次期首相最有力候補の閣僚職であった[448]。, 大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦の勃発で中断されていた金本位制への復帰である。大戦後、イギリスの輸出産業は新興国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少していた[450]。当時イギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、世界金融の中心はイギリスのシティからアメリカのウォール街に移ろうとしていた。ドルはポンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった[451]。国際的地位の低下に焦っていたシティの金融業界はイギリスの国際投資と国際貿易の再興を狙って戦前レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位制復帰を主張するようになった[452][450]。1918年の膨大な政府支出のために戦後直後のイギリスはインフレ的な国内信用拡大が起こっていた[453]。しかし1920年以降はデフレになり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まった。ポンド高も進み、1922年末には1ポンド=4.63ドル、1924年総選挙後には1ポンド=4.79ドルとなった。戦前レートでの金本位制復活を行っても大きな混乱なく実施できそうな相場であり、いい機会に見えた[451][454]。, チャーチルは国際投資より国内信用の拡大を志向してインフレ政策を希望していたが、大蔵官僚やイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン (初代ノーマン男爵)の説得を受けて、戦前の輝かしい地位にイギリスを戻したいという願望が強まり、ほとんど何の準備もなく、1925年4月に金本位制復活を宣言した[455][456][457]。, 戦前レートでの金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出産業、とりわけ石炭産業が打撃を受けた。その結果、イギリスの炭坑資本家は経営の合理化を図る必要に迫られ、1925年6月30日と7月1日に坑夫の労働組合である坑夫連盟に対して従来の最低賃金と7時間労働制を破棄するとともに、13%から48%までの幅のある賃金切り下げを行うことを通告した。これに対抗して坑夫連盟や労働組合会議はゼネストを表明した[458][459][460][461]。, このゼネストに対してボールドウィン首相は、王立委員会による調査が終わるまで賃金切り下げ分の補助金を政府が出すことを約束して懐柔した。しかし王立委員会は1926年3月に多少の労働環境の緩和を盛り込みながらも、賃金切り下げと補助金打ち切りを求める報告書を提出したため、再びゼネスト突入の危機が高まった[462][463][464]。労働組合会議幹部の間には交渉を求める声が多かったが、政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否、労働組合会議の総評議会は1926年5月3日からゼネストに突入した[465][466][464][458]。, 王立委員会の設置はスト破りなどゼネストを骨抜きにする体制を整えるための政府の時間稼ぎで、態勢が整うや政府は挑発してゼネストを起こさせたという批判がある[467]。そしてその立場からは挑発を行わせた閣僚はチャーチルだという見方が多かったが、定かではない[468]。ボールドウィン首相は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始した[469]。そしてその弾圧を最も強力に支持したのは労働運動の背後に常に共産主義者の陰謀を見ているチャーチルであった[469][470]。チャーチルは政府機関紙『ブリティッシュ・ガゼット』を創刊し、ゼネストが違法であることを訴えた[471]。こうした政府の攻撃は奏功し、ゼネストは大衆の支持を得なかった[472]。, 政府と資本家による労働運動切り崩し工作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、5月11日にはゼネスト中止を宣言した[473][464]。鉱山労働組合のみ従おうとせず、単独での労働争議を続けたが、彼らも11月までに資本家の要求をすべて受け入れる無条件降伏に追い込まれてストは終結した[473][467][474][472]。, イギリスの半植民地エジプト訪問の帰路の1927年1月にイタリアを訪問し、1922年以来政権を掌握していたファシスト党党首で首相のベニート・ムッソリーニと会見した[475]。イタリアを離れる際、イタリアの新聞記者たちに対してチャーチルは、「もし私がイタリア人だったら、レーニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘を演じる必要がなく、我々には我々流の物事の進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止めることに成功すると確信している。」と語った[476][475][477]。さらに「ファシズムの国際的価値」として「破壊的な勢力に対抗して、文明社会の名誉と安定を守ろうという大衆の意思を正しく導く方法を世界に示した」ことを指摘し、「ロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤」であると評価した[475][478]。, チャーチルは1929年の4月の予算演説にて政府の借入金による公共事業では失業率を下げることは出来ないと宣言した[479]。, 1929年5月の総選挙でチャーチルはエッピング選挙で再選を果たすも、選挙全体の結果は失業対策を訴えた労働党が289議席を獲得して第一党に躍進した。保守党は260議席、自由党は59議席しか獲得できず、保守党政権は崩壊、チャーチルも大蔵大臣を退任。代わって自由党の協力を受ける労働党政権、第2次マクドナルド内閣が発足した[480]。, もっともこの選挙に保守党が勝利していたとしてもチャーチルは大蔵大臣から罷免されていたといわれる。というのもボールドウィン首相が選挙戦中に「チャーチルは再入閣させない」と周囲に漏らしているからである。チャーチルはこの段階でも自由党と保守党の連合構想を持っており、自由貿易を捨てきれないでいた。そのため党内保護貿易主義者から不満を買っており、孤立しつつあったのである。また個人的にもボールドウィン首相は大蔵省の管轄外のことにまで口を出して閣議の和を乱しがちなチャーチルを嫌っていた[481][482]。以降チャーチルは10年にわたって閣僚職に就くことができなかった。, 1929年秋のアメリカ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌はイギリスも襲い、1929年5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増した。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、1931年8月に総辞職[482][483]。困難な時局に対応できる強力な政府が求められた結果、マクドナルドを首相のままとした保守党、自由党、労働党大連立派(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)の3党の大連立による挙国一致内閣が成立した[482][484]。しかしチャーチルは入閣できなかった[485]。, 挙国一致内閣はチャーチルが再導入した金本位制を停止し、大英帝国を排他的なブロック経済圏にする保護貿易を推し進めた。これはイギリスが1世紀近く前に自由貿易に移行して以来の歴史的な保護貿易への回帰だった[486]。, チャーチルは自由貿易主義者だったが、あまりの失業者数の増大に彼の信念も揺らぎ、新聞社経営者初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケンらが唱える「帝国自由貿易」という自由貿易の名を借りた帝国特恵関税制度を支持するようになった[487]。, 1930年には『My Early Life』を出版し、庶民院議員となるまでの自分の人生を振り返った。冒険活劇調であり、インド人を「蛮族」呼ばわりし、「蛮族」が自分の活躍でばたばたと倒されていった事を自慢げに書いている[488]。1931年からは先祖である初代マールバラ公爵の伝記『マールバラ公 その生涯と時代』の執筆を開始し、マールバラ公を「貪欲で道徳とは無縁の人物」とするマコーレーの評価に反駁したものだった[489]。, 第一次世界大戦中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために、戦後のインド自治を約束していた。しかし戦争が終わっても自治の見通しは立たず、ガンジーの非暴力抵抗運動が盛り上がりを見せていた[490]。これを懐柔すべく、インド総督アーウィン卿(後のハリファックス卿)は、1929年にインドの大英帝国自治領化が最終目標であり、そのためのロンドンの円卓会議にインド人代表団が参加できるようにすることを宣言した[487]。首相マクドナルドや保守党党首ボールドウィンは、アーウィン卿の宣言を支持したが、熱心な帝国主義者であるチャーチルは反対した。インド人には自治は尚早であること、インドの支配層はインドの民を代表しているとはとても言えない者たちであること、大英帝国の繁栄の根源であるインドに自治を与えることは自分で自分の手足を切り捨てているも同然であること、一度でもインド・ナショナリズムに譲歩したら、なし崩し的に独立まで突き進んでしまうであろうことなどを指摘した[491][490]。, ガンジーは、はじめアーウィン卿の宣言に対して歩み寄ろうとしなかったので1930年5月に投獄されたが、1931年1月には釈放されて交渉に応じた[492][493]。しかしガンジーを嫌悪するチャーチルは、交渉に応じるアーウィン卿を批判した[494]。またインド自治の危険性を感じ取ろうとしない大衆にも怒りを感じており、「彼らは失業と増税の心配ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪報道に夢中だ。今、自分たちが乗っている大型客船が静かに沈みつつあるというのが分からないのか。」と憂慮した[492]。しかしチャーチルの強硬な反対論は党首ボールドウィンに嫌われた。1931年1月にボールドウィンが「インド政治指導層の支持を得たインド政策ならば支持する」と宣言したことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全に袂を分かち、「影の内閣」からも離脱した[492][495][496][497]。, 1933年3月17日にマクドナルド挙国一致内閣は、後のインド統治法の叩き台となる白書を発表した。そこにはインド各州に自治権を付与すること、インド人が参加する連邦政府を創設し、インド総督の権限の一部を連邦政府に移すこと、またインド総督が責任を負う立法議会を設置することなどが盛り込まれていた[498]。チャーチルはこの白書に反対し、1933年4月には自らを副総裁としたインド防衛連盟を結成した[499]。その創設大会でチャーチルは「ガンジー主義の粉砕」を訴える演説を行ってイギリスでもインドでも注目された[500]。インド防衛連盟は加入者数こそ少なかったが、父が創設したプリムローズ・リーグと同様、保守党議会外大衆組織に大きな影響を及ぼしていた[500]。1933年6月の保守党協会全国同盟会合では参加者の3分の1からインド自治反対の票を獲得し、1934年秋の保守党大会ではインド自治賛成543票に対して、インド自治反対派520票と僅差に持ち込んだ[500]。, しかし1935年1月にマクドナルド挙国一致内閣がインド統治法を提出するとチャーチル派の情勢は悪くなった。チャーチルが1935年1月30日にBBCのラジオ放送で行ったインド自治反対の演説は評判が悪く、また同年2月には長男ランドルフがインド統治法反対を公約に掲げて保守党公認候補に対抗してウェイヴァトリー選挙区の補欠選挙に出馬するも落選した[501]。インド統治法案の庶民院での審議においても第三読会までのどの投票でもチャーチル派は90票以上の票を集められなかった。最終的には1935年6月5日の庶民院の採決で264票差の大差をつけられて、チャーチルは敗北し、インド統治法が可決されることとなった[502]。, しかし結局インド統治法に定められた「インド連邦」は藩王国が反発して加盟を拒否したため、施行されなかった[503]。またヨーロッパ情勢が緊迫化している中、チャーチルもこれ以上この件で保守党執行部と対立を深めるのは好ましくないと判断し、自分の選挙区に宛てて闘争終了宣言を出した。その中で元首相ソールズベリー侯爵が1867年に選挙法改正をめぐって敗れた際の「政治的敗北を受け入れることは、あらゆるイギリス人や政党の義務だ」という言葉を引用した[503]。, チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンに立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは国会議員選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、その党首アドルフ・ヒトラーが近いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される可能性が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテングルと知り合い、ヒトラーとの会談を勧められ承諾した[504]。しかし、チャーチルはシオニズムを支持している政治家だった[505]ためハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけ、この質問がヒトラーの耳に入って機嫌を損ねたらしく、会見はヒトラーから拒否された[506]。, 後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った。」と回顧している[507][508]。半年後の1933年1月に首相に任じられたヒトラーは独裁体制を整え、1935年3月には念願のヴェルサイユ条約ドイツ軍備制限条項の破棄を宣言して再軍備を開始した[508]。, イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党とドイツ共産党以外の政党が力を失っているドイツではもしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融和派が多かった[509]。保守党党首ボールドウィンやその後任の党首となるネヴィル・チェンバレンも同様であった。, ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするだろうし、反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きそうに思えた[510]。また1930年代のチャーチルは干されていたことから、あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立つことで、ドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いだった可能性もある[511]。チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきであると主張した[512]。また次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たすと見ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らした[513][514]。, 1936年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められていたラインラントにドイツ軍を進駐させた。フランス政府は対独開戦すべきかどうか判断に迷い、イギリス政府に伺いを立てたが、ボールドウィン首相(マクドナルドは1935年6月に退任し、保守党党首ボールドウィンが再び首相となった)は融和政策に基づき、放置すべしとした。イギリス国内の世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ」という融和的空気が強かった。だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮ることなく、ただちに戦争を開始しただろう」と述べ、フランスの人材不足を嘆いた[515]。, 一方でヒトラー以外のファシズム指導者には好意的であり、1935年にムッソリーニのエチオピア侵攻について帝国主義者の立場から「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」として熱烈に支持した[516]。1936年のスペインのフランコ将軍による左翼との戦い(スペイン内戦)も反共主義者としての立場から共感を持ち、労働党が左翼政府を支持しようとするのに対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持した[517][518]。, 1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードがエドワード8世として即位した。エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、妃がいなかった。皇太子時代からアーネスト・シンプソンの夫人のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと付き合っていた[519]。1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は結婚の意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには、二度も離婚歴があり、さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英ドイツ大使との交際歴もあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった[520]。, またエドワード8世は外交への介入が目立つ王であり、ラインラント問題の際にも、親独派としてドイツの邪魔をしないようイギリス政府をけん制してきた[521]。ボールドウィン首相としては自己主張の強い王より、気の弱い王弟ヨーク公アルバートの方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するなら退位するよう迫った[522][520]。チャーチルは、王室への忠誠心、またボールドウィンへの敵意もあってエドワード8世の擁護に回った[520][523]。, エドワード8世も11月16日にボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた貴賎相婚(シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、コーンウォール公夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった[524]。これを聞いたボールドウィンは自分を辞職させてチャーチルを首相にする陰謀と確信し、「退位されないつもりなら辞職させていただきます。その場合『国王対政府』の戦いがはじまり、イギリスは未曽有の危機に陥るでしょう」と奏上した[525]。, これに対してチャーチルは「王が臣下の助言を拒否したら、退陣すべきは臣下であって王ではない。臣下が王に圧力をかける権利などない」と君主主義の立場からボールドウィン批判を展開した[523]。チャーチルは自分を支持する議員たちをかき集めたが、40人程度しか糾合できなかった[526]。, 12月2日にボールドウィン首相はエドワード8世に最後通牒を付きつけた。世論も自治領政府もボールドウィンを支持しているとのことだった[527]。それでもエドワード8世はチャーチルと相談してから決断したいと即断は避けた[522]。12月4日にエドワード8世の引見を受けたチャーチルは、退位を思いとどまるよう説得にあたったが、もうエドワード8世にはチャーチルとともに王党派を率いて政府と戦う意思はなくなっていた[523]。結局エドワード8世はこの二日後の12月6日に弟ヨーク公に譲位することを国民に発表し[528]、12月9日には正式に退位文書に署名した[529]。, チャーチルの立場はなくなり、12月7日のチャーチルの庶民院での演説は批判の野次で轟々となった。激怒したチャーチルは、ボールドウィン首相に向かって「貴方は陛下を叩きのめさなければ気が済まないのですか」と叫んだ[523]。, 1937年5月にボールドウィン首相は政界引退し、代わってネヴィル・チェンバレンが保守党党首・首相に就任した[530][529]。チェンバレンもボールドウィンと同様「閣議の和を乱す危険分子」チャーチルを入閣させる意思はなかった[531]。, 1937年中、チャーチルは駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップと会見し、東ヨーロッパに対する領有権主張を聞いて、ドイツの領土的野心が強まっているとの確信を強めた[532]。実際この頃からヒトラーはかつてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が領有していた領土のうちドイツ系住民が多数派の地域の割譲を要求するようになっていた。1938年3月にはドイツ民族国家のオーストリアがドイツに併合された。チェンバレンは許容範囲内と判断し無視したが[533]、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合計画を批判する演説を行った。, つづいてヒトラーは旧オーストリア=ハンガリー帝国領ズデーテン地方(当時はチェコスロバキア領)のドイツへの割譲を要求した[534]。さすがに心配になってきたチェンバレンは1938年9月15日にドイツ・バイエルン州・ベルヒテスガーデンのヒトラーの別荘を訪問し、ヒトラーを直に説得しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府によって酷い弾圧を受けているかをとうとうと語り、逆にチェンバレンを口説き落とした[535]。結局チェンバレンはフランスを説き伏せて、9月29日に英仏独伊の四国首脳によるミュンヘン会談を行い、正式にズデーテンのドイツ領有を認めた[536][537]。これを聞いたチャーチルは「我々は敗北した」[538]、「これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と語ったという[539]。チャーチルとチャーチル派の議員30名ほどはミュンヘン協定に抗議すべくその批准決議に欠席した[540]。, しかしミュンヘン協定もむなしく、1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したのを利用してドイツはチェコを保護領とした(チェコ併合)[541]。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったとの認識が強まった[542]。ここに至って労働党は英仏ソ同盟を主張[543]、反共主義者のチャーチルも勢力均衡論から賛成した[544]。, だがチェンバレン首相はソ連との同盟には否定的だった。彼はソ連をイデオロギー的に嫌っていたし、ソ連は英仏とドイツを潰し合わせようとしているという疑念を強く持っていた。それにソ連共産党の軍隊である赤軍はスターリンの大粛清によってトゥハチェフスキー元帥をはじめとする高級将校のほとんどが抹殺されていたため、同盟を結んだところでまともな戦力として勘定できないと考えられた[545]。, 一方スターリンも独ソを反目させようという英仏の陰謀を警戒しており、ドイツと協定を結んでおく必要性を感じていた[546]。ヒトラーもビスマルク以来のドイツの二正面作戦回避戦略であるロシアとの接近を考えていた[547]。こうして利害が一致したスターリンとヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約の秘密協定において東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配することが取り決められた[548]。イデオロギー上相いれないはずの両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルはスターリン支配下のソ連はレーニン時代に比べて、共産主義がお題目化しており、他の列強と大差がなくなってきていると考えていたため、さほど驚かなかったという。それよりみすみすソ連をドイツにくれてやったチェンバレンの外交センスの無さに批判的だった[549]。, 英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日にポーランドへ侵攻を開始した。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは、9月2日にドイツに宣戦布告した[550]。イギリスに引きずられてフランスも対独参戦し[551]、第二次世界大戦が開戦した。, 開戦した以上、チェンバレンとしても対独強硬派の代表格チャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任じた。チャーチルは24年ぶりに海軍省大臣執務室に復帰した[552]。全艦隊に「ウィンストン帰る」と書いた電報を送っている[550]。チャーチルは長らく政権から離れていたとはいえ、コネを使って政府の軍事情報を収集するのを怠らなかったし、1935年からは帝国防衛委員会付属の防空研究委員会に所属していたので航空機の最新知識もそれなりに持っており、役職をこなすうえで難はなかった[553]。, チェンバレン首相は開戦後も早期の平和実現を願っており、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にしようと考えていた。ドイツをやせ細らせて、領土拡大が「割に合わない」ことをヒトラーに思い知らせ次第、早期講和に持ち込む考えである[554]。だがチャーチルは第一次世界大戦の時と同様イギリスかドイツ、どちらかが倒れるまで徹底的に戦うつもりだった。これについて閣僚の一人サミュエル・ホア (初代テンプルウッド子爵)卿は「奴は100年でも戦うつもりでいる」とチャーチルを批判している[555]。, 海戦の状況は一進一退だった。開戦間もない1939年10月13日から14日にかけてドイツ海軍の潜水艦Uボートによって戦艦ロイヤル・オークが沈められた[556][557]。しかし12月には逆にイギリス戦艦がドイツ海軍の装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを自沈に追い込んだ[556][557]。, 一方陸戦の方では、ポーランドが開戦からわずか4週間にしてドイツ軍とソ連赤軍によって蹂躙され、独ソ分割占領をうけていた。しかし英仏軍とドイツ軍の間に本格的な戦闘は発生していなかった(まやかし戦争)。沈黙を破ったのはソ連だった。1939年11月から赤軍がフィンランド侵攻を開始した。西欧を主戦場にするのを嫌がっていた英仏首脳は、フィンランドに遠征軍を送り、ここを独ソとの主戦場にすることを考えた。チャーチルもそれに賛成しつつ、フィンランド遠征の途中にノルウェー北端のナルヴィク港を占領し、またドイツの鉄供給地であるスウェーデンの鉄鋼鉱山を破壊するという計画を立案した。しかし結局フィンランドがソ連と講和して一時休戦したため、この作戦は流産した[558][559]。チャーチルは冬戦争が起こる前からノルウェーの港の占領を目論んでおり、この計画はヒトラーにも察知されていた。ドイツ軍はイギリスの先手を打つ形で1940年4月9日から北欧侵攻を開始した[560]。デンマークを一日で陥落させたドイツ軍は、ノルウェーの港に次々と上陸してきた。チャーチルも対抗して英仏軍をノルウェーに上陸させたものの、チャーチルの作戦は全て裏目に出て、精強なドイツ軍によって散々に粉砕されてしまった[561]。チャーチルは「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかった」と回顧している[562]。, ガリポリの戦い以来の惨敗にチャーチルも海相失脚を覚悟したが、5月7日から8日にかけて庶民院で行われたノルウェー作戦についての討議では、その批判はチャーチルではなく、首相チェンバレンに向かった。チャーチルは「ノルウェー戦の敗北は自分の責任だ」と主張してチェンバレンを擁護しようとしたが、自由党党首ロイド・ジョージは「防空壕になるのはやめろ」とチャーチルを止めた[563][564]。与党議員からも続々と造反者が出る中、チェンバレンは、労働党との大連立による挙国一致内閣で政権強化する道を模索するようになった。だが労働党の議員たちはチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多かった。彼らはかつてチャーチルが行った労働運動弾圧の恨みを忘れていなかったが、左翼イデオロギーからヒトラーとの戦いを徹底的に遂行する者を希望していたのである[565]。世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。チャーチルはクリミア戦争時のパーマストン子爵、あるいは一次大戦時のロイド・ジョージのような立ち位置にあり、首相にふさわしい人物であった[566]。だが、もう一人、首相候補として各方面からの反発が比較的少ない外相ハリファックス子爵(インド総督だったアーウィン卿)もいた[567]。5月9日にチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵の両方を召集した。チェンバレンはハリファックス子爵を首相にしたがっており、チャーチルに「ハリファックス卿の内閣で働く意思はあるか」と聞いたが、チャーチルは沈黙していた。そこへハリファックス子爵が「貴族院議員の私が首相になるのは望ましくないでしょう」と述べたことでチャーチルの首相就任が決まった[568][569][570]。, 1940年5月10日午後6時にバッキンガム宮殿で国王ジョージ6世より組閣の大命を受けたチャーチルは、第1次チャーチル内閣を発足させた。労働党も参加を了承した挙国一致内閣であった戦時内閣は5人で構成したが、2人は労働党の議員であり、そのうちの1人が後の首相アトリーだった[571]。, 5月13日に首相として庶民院へ入り、「我々の目的が何かと言えば、一言で答えられる。勝利だ。どれだけ犠牲を出そうとも、どんな苦労があろうと、そこに至る道がいかに長く困難であろうとも勝利のみである」と演説し[572]、保守党はチャーチルを歓迎しない者が多かったが、労働党はチャーチルに拍手を送った[573]。首相就任時、チャーチルは65歳、対するヒトラーは51歳だった[568]。, チャーチルは就任早々「内務大臣は、外国に従属している、または指導者が敵国政府指導者と関係を持っている、あるいは敵国政府のシステムに共感をもっていると認められる組織のメンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」という防衛規則18B(英語版)の修正規則18(1a)を制定してイギリスを言論弾圧国家に変貌させ、ファシスト、共産主義者、敵性外国人を次々と逮捕した[574][575]。イギリスファシスト連合指導者サー・オズワルド・モズレー准男爵が「マグナカルタ以来保障された人権を侵している」と同規則を批判したが、チャーチルは取り合わず、これを逮捕させた。他にもアーチボルト・ラムゼイ(反ユダヤ主義者の保守党庶民院議員)やタイラー・ケント(モンロー主義者の駐英アメリカ大使館員)らを逮捕した。親族といえども容赦せず、ミットフォード姉妹の三女でモズレーの妻であるダイアナも逮捕させ、夫と同じ牢獄に送った[576][575]。, チャーチルが首相に就任した5月10日はちょうど「まやかし戦争」が終わった日だった。同日早朝、フランスを陥落させるべくドイツ軍がベルギーとオランダへ侵攻を開始し、「西方電撃戦」がはじまった。英陸軍は1939年9月以来、海外派遣軍22万5000人をフランスに上陸させ、フランス・ベルギー北部に展開させていたが、ヒトラーはこの軍の包囲を狙ってエーリヒ・フォン・マンシュタイン中将立案の作戦に基づく攻勢をかけさせた。ハインツ・グデーリアン装甲大将が率いるドイツ軍装甲部隊はフランス軍の盲点になっていたアルデンヌを通過して、ディナンとセダンからマース川渡河に成功し英仏海峡めがけて進軍した[577]。王立空軍は出撃するも、半数近くが撃墜された[578]。, 慧眼なヒトラーは、今は歩兵攻撃の時代ではなく、戦車や車両が最前線を突き進んでいく電撃戦の時代であることを見抜いていたが、チャーチルは第一次大戦の観念を捨てきれていなかった。戦後チャーチルは「猛スピードで進軍する重装甲部隊の侵略が、どれほど先の大戦の大革新であったか私は全く理解できていなかった」と回顧録の中で述べている[579]。, 5月15日朝7時頃にチャーチルはフランス首相ポール・レノーからの電話で「我が国は敗北しました。」と聞いた。寝ぼけていたチャーチルには意味がよく分からず、黙っていたが、レノーは「我々は敗北しました」を繰り返した。チャーチルはレノーを落ち着かせようとしたが、彼はパニック状態だった。チャーチルはとにかく明日にもパリを訪問することを約束した[580][581]。5月16日午後にパリに到着したチャーチルは、レノーの言ってることが大げさでも何でもなかったことに気付かされた。連合国最高司令官モーリス・ガムラン仏参謀総長は真っ蒼な顔で小刻みに震えていたという。チャーチルは「フランス軍の本隊と予備隊はどこにいるんです」と聞いたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」と答え、ただちに王立空軍10個飛行中隊を増援に送ることを要求した。チャーチルはフランス脱落を恐れてやむなく了承したが、恐らくドイツ軍の電撃戦を空から阻止することはできないだろうと見抜いていたという。また、この増援によりイギリス本土に残る飛行中隊は25個だけになった。これはギリギリの線だった。これ以上出せばイギリス本土の制空権がドイツ空軍に脅かされる可能性が高かった[582][583]。, 一方、海外派遣軍は英仏海峡に到達したドイツ軍によって南フランスのフランス軍主力と切り離されて、ダンケルクに追い込まれた。チャーチルは彼らの全滅も覚悟したが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツ軍装甲部隊指揮官たちに追撃を許さなかったため、海外派遣軍とフランス軍部隊の一部を加えた33万8000人は5月29日から5日間にわたって行われたイギリス本土への撤退作戦に成功した(ダンケルクの撤退)。この謎の奇跡にイギリス国内はまるで勝利したかのように喜びに湧きあがった[584][585][586], ダンケルクの撤退成功で決定的破滅を免れたとはいえ、撤退は勝利ではなく、イギリスが追い込まれている状況に変わりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気が覗いてきた。5月28日には親ナチ派のロイド・ジョージに入閣を要請しているが、これはドイツに和平交渉を提案しなければならなくなった場合に備えてのことともいわれる(この入閣要請はロイド・ジョージの方から拒否された)[587]。ダンケルクの撤退成功後の6月4日の庶民院での演説では「万が一イギリス本土が占領されたとしても我々は戦いをやめないであろう。海の彼方にも広がる我が帝国は、新世界から海軍を使って旧世界の救援と解放を目指す。」と語り、アメリカの支援の期待と大英帝国植民地にイギリス政府を移す可能性を示唆している[588][589][590]。, ドイツ軍の南フランスへの進軍が開始される中、フランス政界では和平派の声がますます強まっていった。チャーチルはフランスが降伏してフランス海軍力がドイツに接収されるのを恐れるあまり、「フランス艦隊を全てイギリスの港に送れ」だの、英仏を「英仏連邦」という名の一つの国家にしよう(=フランスの全船舶をイギリスが共同所有)だの身勝手な要求を行い、フランス人から顰蹙を買った。イギリスの敗戦も時間の問題と考えられていたので「死体(イギリス)と結合するくらいならナチスの占領下に入った方がマシ」というのがフランスの政治家・軍人の主流意見となった[591][592][593]。, 6月16日にフランス首相となったフィリップ・ペタン元帥はヒトラーに和平交渉の意思を伝え、6月22日にも独仏休戦協定の締結に応じた[594]。こうして、シャルル・ド・ゴールなど一部の亡命軍人を除き、フランスはドイツとの戦いから離脱した。, 1940年夏のイギリスは破滅の一歩手前だった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるか、その衛星国家になっていた。東欧も独ソに分割占領され、またドイツは日本やイタリアと同盟関係を結んでいた。アメリカ参戦だけがイギリスの唯一の希望という状態だったが、アメリカの国民世論はモンロー主義が根強く、大統領フランクリン・ルーズベルトも大統領選挙を前にしてチャーチルの誘いには簡単には乗ってこなかった。イギリスは独力でブリテン島の守りを固め、ドイツ軍の攻撃を待つしかなかった。チャーチルはこの時の状況を後に「イギリスの最後の審判の時が刻まれたと全世界が思いこんでも何の不思議があろうか。」と評した[595]。, フランスに勝利したのち、ヒトラーはイギリスに和平を提唱したものの、チャーチルは強硬路線を曲げず、拒絶した[596]。ドイツ軍はイギリス上陸作戦「アシカ作戦」の立案を開始したが、これを成功させるためにはイギリス本土の制空権を握る必要があった。チャーチルもまず襲来してくるのはドイツ空軍と予期しており、イギリス本土を攻撃させておいて、敵の空軍力を粉砕するという方針を取った[597]。ドイツ空軍の空襲は8月10日から開始された[598]。ドイツ空軍ははじめ港や基地、飛行場など軍事施設を中心に空襲をかけてきた[596]。イギリス軍機がこれを迎え撃つべく出撃し、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリス本土上空での激闘が始まった。最初の二週間はドイツ軍機が次々と撃墜されてイギリス優勢であったが、8月24日を境にイギリス軍機の撃墜も目立つようになり、消耗戦の様相を呈してきた。それでも王立空軍は最後までドイツ空軍に制空権を渡すことはなかった[598]。, またこの間にチャーチルは1000機の爆撃機をもって最初のベルリン空襲を敢行したが、戦果は乏しかった[599]。ヒトラーはこの復讐で、まだ制空権を握れていないにも関わらず、9月7日からドイツ空軍爆撃機にロンドン空襲を開始させた[600][601]。だが、これはドイツ側の重大な判断ミスとなった。これによってイギリス軍機に撃ち落とされるドイツ軍機の数が急増したのである。チャーチルも「戦闘機部隊司令官はドイツ空軍の攻撃目標がロンドンになったことに安堵していた」と書いている[600]。チャーチルは爆撃を受けた町を視察して回り、そこで葉巻をくわえながら勝利のVictoryを意味したVサインをして見せた[602]。これはやがて彼のトレードマークとなった。この一連の視察でチャーチルの国民的人気は大いに高まり、独裁的地位を確立するに至った。チャーチルはなおも議会を重んじるかのような発言はしていたが、反対派の声はこのチャーチル人気の前に圧殺されるようになった。, バトル・オブ・ブリテンで失われたパイロットと航空機の損失にヒトラーも動揺し、9月17日にはアシカ作戦の中止を決定した[603][604][601]。, 1940年11月に行われたアメリカ大統領選挙でルーズベルトが三選し、アメリカ政府が平和を求める国民世論を無視してモンロー主義を放棄するようになり始めており、チャーチルにとって事態の好転の兆候があった。ルーズベルトは1940年12月末のラジオ放送で「イギリスが敗れれば、全ヨーロッパ、全世界がドイツに征服され、人類の自由と幸福は失われるだろう」などと演説し、公然とドイツを批判、イギリス支持の主張を行った。そして1941年3月にはモンロー主義者の反対を押し切って武器貸与法を制定し、イギリスに武器や兵器を戦後払いで提供し始めた[605]。, イタリアのムッソリーニは大戦初期には中立を保っていたが、フランス戦のドイツの勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側で参戦した。しかしイタリア軍は貧弱でフランスのアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍も一部参加していたが、やはりその働きは杜撰を極めた[607]。だがムッソリーニは、地中海の覇権を目指し、ヒトラーの援助の申し出も拒否して独断でエジプト王国(名目上独立国家だったが、実質的にはイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャに侵攻を開始した[607]。チャーチルは乏しいイギリスの物資と戦力をこの地中海の戦いに注ぎこんだ。アメリカの参戦を促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝を上げられそうなのは目下この戦域だけだったからである[608]。この目論見は奏功し、1940年12月にエジプト駐留イギリス軍はイタリア軍を返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビアへ侵攻し、イタリア軍をトリポリまで追い詰めた[609]。イタリア軍を北アフリカから駆逐できればイギリスは地中海を自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった[610]。またギリシャ戦線でもイタリア軍は敗北し、イギリスはここに空軍基地を設置してドイツの重要な資源地であるルーマニアの油田への空襲も狙えるようになった[610]。, ヒトラーも看過できなくなり、地中海にドイツ軍派遣を決定した。1940年12月にはギリシャのイタリア軍救出のためのマリータ作戦を発動し、ついで1941年1月にはゾネンブルーメ作戦を発動してドイツアフリカ軍団がトリポリへ送られるようになり、2月にはその指揮官としてエルヴィン・ロンメル中将が派遣された[611]。, 一方チャーチルは中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェルの訴えを無視して北アフリカの兵力を強引にギリシャに割いたが、ドイツ軍に蹴散らされた[612]。, ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍に対する攻勢を開始し、リビアのほとんどの地域からイギリス軍は駆逐された。トブルクだけはオーストラリア軍の勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された[613]。チャーチルは6月にもトブルク包囲を解こうとイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将に命じてバトルアクス作戦を開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされた[614]。チャーチルはウェーヴェルを解任し、クロード・オーキンレック大将を後任とすると、11月にもクルセーダー作戦を開始させ、ドイツ軍を後退させた[615]。しかし1942年5月からドイツ軍の反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍は駆逐された(ガザラの戦い)。チャーチルはトブルク陥落を恐れ、守備軍に死守命令を下したが、司令官が独断で降伏してしまった[616]。, トブルク陥落は、この数か月前のシンガポール陥落と相まって、イギリス国内に強い衝撃を与え、戦時中のチャーチル批判は1942年7月に最も強まった。議会では内閣不信任案が提出された。挙国一致内閣のオール与党だったため、不信任案自体は大差で否決されたものの、戦時の挙国一致内閣で内閣不信任案が提出されること自体が異例であった。このようなことは一次大戦時にも起きたことはなく[617]、チャーチルはこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという[618]。19世紀以来続いているイギリスのエジプト占領体制も揺らぎ始めた。エジプト駐留イギリス軍は書類を焼き始め、パレスチナへの撤退準備を開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルがイギリスの圧政から解放してくれるという期待感が広がっていた[618]。エジプト王ファールーク1世も独立のチャンスが来たと見て反英内閣の組閣を計画したが、エジプトの実質的支配者であるイギリス大使ミレス・ランプソン (初代キラーン男爵)がエジプト王の宮殿を包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画は水泡に帰した[619]。もしエジプトをドイツ軍に突破された場合、失われるのはエジプト支配権だけではなかった。北アフリカのドイツ軍がコーカサスに進軍している東部戦線のドイツ軍と合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ、大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった[620]。, だが、ロンメルの快進撃はここまでだった。ドイツ軍が勢いに乗って開始したエジプトへの進軍は7月中に停滞した。チャーチルは8月3日にもエジプト首都カイロに入り、チュニジアに上陸予定の英米軍支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官にバーナード・モントゴメリーを任じて新体制を整えた[620]。10月から11月にかけてのエル・アラメインの戦いでモントゴメリー率いるイギリス軍はロンメルのドイツ軍を撃破し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英米軍の上陸が成功した[621]。1943年3月にはロンメルは戦線を離脱し、北アフリカのドイツ軍は5月までに降伏した。, 北アフリカ戦中の1941年6月22日にヒトラーはバルバロッサ作戦を発動し、東ヨーロッパのソ連占領地域にドイツ軍が侵攻を開始した。これを見てチャーチルはその日のうちにスターリンに無条件の協力を約束する電報を送った。この時チャーチルは秘書に「ヒトラーが地獄へ攻めいれば、私は地獄の大王を支援するのだ」と語ったという[622]。, 1941年8月にもイギリスとソ連は共同でイランへ侵攻し、同国の石油資源を確保しつつ、ソ連支援ルートを作った[623]。当面イギリスがソ連に対して行える支援はこのルートを使っての物資支援に限られていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸して「第二戦線」(西部戦線)を開くよう再三要求し[622]、イギリス国内でも左翼が「即刻、第二戦線を」と街の壁のあちこちに落書きして歩くようになった[624]。だがチャーチルはこれを拒否し続けた。一度、駐英ソ連大使が「第二戦線を開け」とあまりにしつこかった時には、つい最近までの独ソの近しい関係を引き合いに出し、「貴方がたに何か要求される筋合いはない」と突っぱねた[622]。アメリカ参戦後にはアメリカのルーズベルトが第二戦線論に乗り気だったが、チャーチルはルーズベルトに直談判して中止させ、北アフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸作戦に変更させた[625]。結局、1944年6月のノルマンディー上陸作戦まで本格的な「第二戦線」が開かれることはなかった。, 1941年8月にはイギリス自治領カナダ・ニューファンドランド島沖に停泊中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でアメリカ大統領ルーズベルトと会談した。ここで両首脳は「大西洋憲章」を締結した。これは第一次世界大戦時にウィルソンが発表した14カ条を真似たもので領土不拡大や民族自決を盛り込んでいた。後に国際連合憲章の原型になった米英の共同文書として知られている[626]。, だがチャーチルはこの憲章の適用範囲はドイツ支配下のヨーロッパ諸国のみであり、大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきと主張した[627][628]。そのことを憲章の民族自決に関する条項にも盛り込ませようとしたが、アメリカはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたため、拒否された[629]。ルーズベルトが「永久平和の手段」として世界自由貿易を提案したのに対して、チャーチルは「帝国内関税特恵制度を変更するつもりはない」と拒絶した。だがルーズベルトはなおも食い下がり、「ファシスト奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの18世紀的植民地支配体制から全世界を解放する気はないというのはいかがなものか」などとイギリス批判をはじめた。これを聞いたチャーチルは激昂のあまり卒倒しかけた[630]。しかしアメリカがなんと言おうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章の適用外という解釈を取り続け、憲章締結後も植民地の民族運動家に対する弾圧をやめなかった[626]。また憲章のうち領土不拡大という理念もやがて英米ソの三国が領土分割を約束し合うようになったことで、完全に無視されるに至った[626]。, またこの会談の際、ドイツの同盟国であり、南西太平洋地域のフランス植民地に進駐した日本に対して戦争も辞さない強硬な姿勢をとるべきことがチャーチルの発案により米英両国で確認された[631]。これに基づいてか、アメリカは11月に日本に対して「中国から撤兵せよ。満洲事変以前の状態に戻せ」というこれまでにない強硬要求を突き付けた。日本を戦争に追い込むための挑発だったという説もある[632]。, 1941年12月7日の大日本帝国陸軍によるマレー作戦で日英間が開戦した。日英が交戦状態となったことを知らせる駐英日本大使への通知はやけに丁重で、「閣下の忠実なる僕、ウィンストン・S・チャーチル」という署名で結んでいた。チャーチルによれば「これから殺す相手にはできるだけ丁重にした方がいい」のだという[633]。チャーチルはその翌日に日本に宣戦布告した。, マレー作戦の直後に行われた真珠湾攻撃で日米も開戦した。日米開戦の報告を聞いたチャーチルは大喜びし、早速ルーズベルトに電話した。ルーズベルトは「その通りだ。日本は真珠湾を攻撃した。これで我々は同じ船に乗ったわけだ」とチャーチルに語ったという[634]。チャーチルの回顧録は「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、私は救われた人間、感謝の気持ちに溢れた人間として眠りに付くことができた」と書いている[635][636]。, さらに日本の同盟国のドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告した。これもチャーチルにとっては願ってもないことだった[637][638]。回顧録の中でチャーチルはこの時に勝利を確信したと主張している。「ついにアメリカがその死に至るまで戦争に突入したのだ。これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」と書いている[637]。1941年末に訪米したチャーチルは、アメリカ議会で「一体日本人は我々をどういう国民だと思っているのか!我々がそんなに簡単に屈する国民だと思っているのか!」と演説をした[639]。, なお数年前から日本と交戦状態にある中華民国総統蔣介石の政府とも連携関係に入ったが、チャーチルは蔣介石に「ドイツとの戦線が最優先であり、日本との戦線は二義的意味しかない」と通達している[640]。蔣介石政府はすでにアメリカから大量の支援を受けていたにも関わらず、その多くを自らの私財として貯め込むような腐敗政権であり、このような政府を支援してもまともな戦いは期待できなかった。同盟国というよりもお荷物に近い存在だったことを知っていたためともいわれる[640]。, 北部マレー半島で日本軍は数的にはわずかに優勢であるにすぎなかったが、制空権、戦車戦、歩兵戦術、戦闘経験において優越していた。日本軍は瞬く間にマレー半島のイギリス軍を屈服させ南下を続けた。さらにイギリス領シンガポール沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが日本軍の爆撃機によって沈められた。チャーチルは「あの艦が」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と後に回顧録の中に記している。, イギリスが阿片戦争で獲得した永久領土である香港島を含む香港は、1941年12月8日の日本軍の侵攻開始よりわずか18日間の戦いで日本軍の手に落ちた[641]。, 1942年1月終わりからシンガポールは日本軍に包囲されたが、チャーチルは同市のイギリス軍に死守命令を下し、降伏を許さなかった[642][643]。また「アジア人に対するイギリスの威信が弱まる恐れがある」として「包囲」という言葉の使用を禁じた[642]。だが日本軍による猛攻を受けて、現地司令官アーサー・パーシバル中将は独断で包囲軍司令官山下奉文中将に降伏を申し出、シンガポールは陥落、イギリス軍、オーストラリア軍などからなる連合国軍12万人から13万人が捕虜となった[644][643]。, シンガポールはイギリスがほぼゼロから作り上げ、世界第4位の港にまで育て上げた大英帝国繁栄の象徴であっただけに、それが陥落した衝撃は大きかった[645]。 「シンガポールは難攻不落」と豪語していたチャーチルは、先の2隻の戦艦の撃沈に続き、マレー半島全域の喪失とシンガポール陥落とそれに伴う多くの戦死者、捕虜を出したことで国会において野党の労働党からの厳しい追及を受け、ショックのあまり寝込んでしまったという[646]。, またチャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している[647]。一時は心労のあまり首相辞任を考えるほどであった。, 日本軍は更にイギリス領インド帝国に隣接する植民地であるビルマにも進軍を開始した。こうした中でインドの全インド会議派委員会は独立のチャンスが来たと見て1942年8月より反英闘争「インド退去運動(Quit India Movement)」を開始し、イギリス当局は徹底的に弾圧した[645][648][649]。ガンジーやネルー、全インド会議派委員会幹部が次々と逮捕・投獄されていった[648][650]。, この直後、またしてもアメリカから「インドに大西洋憲章を適用せよ」との横やりが入ったが、チャーチルは拒絶した[651]。この後もアメリカはしつこくイギリスのインド支配破壊を画策し続け、我慢の限界に達したインド総督リンリスゴー侯爵は、1943年に本国インド担当省に対して「善意の干渉家がアメリカから流出してくるのを防いでほしい」と要請している[652]。, 日本海軍は、1942年4月に行われたセイロン沖海戦などでイギリス海軍を駆逐し、これまでは「イギリスの海」であったインド洋の制海権を手にした。この為にイギリスやインドとオーストラリア間の海上貿易や軍用品の供給は止まることを余儀なくされた。さらにシンガポールやペナンの日本海軍基地にドイツ海軍やイタリア海軍の潜水艦が常駐し、インド洋で通商破壊戦を行う有様であった。さらに日本海軍はアフリカ大陸沿岸のマダガスカルに上陸し、同地でイギリス軍との間に陸戦を展開した。, 南下した日本軍はオーストラリアへの攻撃を開始し、1942年初頭から1943年暮れにかけてオーストラリア本土への空襲を実施した。, これらのアジア太平洋の戦局の方は、1943年中盤以降はアメリカのダグラス・マッカーサー大将が率いる「飛び石作戦」の導入により、オーストラリア軍やニュージーランド軍の協力を受けて日本への反撃の主戦地を太平洋諸島に移しており、イギリスの出る幕はなくなっていった[653]。この状況についてイギリスの外交文書も「マッカーサー将軍の一人遊び」、「マッカーサー将軍の独裁」という表現をよく使用するようになる[654]。, 北アフリカ戦線に勝利した米英軍は、イタリア侵攻が可能となった。1943年7月にシチリアへ上陸作戦を決行して成功[655]。連合国の激しい空襲でイタリア人の戦意は衰え、ストライキや暴動が多発し、ムッソリーニは失脚。後任の首相ピエトロ・バドリオは9月にも連合国と講和し、イタリアは戦争から脱落した[655]。この後イタリアはドイツ軍によって占領されたため、結局戦場になった。米英軍は1943年9月9日にナポリの南方サレルノへの上陸に成功したが、アルベルト・ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍の勇戦で米英軍は散々に蹴散らされてほとんど侵攻できなかった[656]。最終的にはノルマンディー上陸作戦に呼応した1944年5月の攻勢でようやくドイツ軍を押し込むことに成功し、1944年6月4日にローマを陥落させた[657]。, 1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蔣介石と会談を行い、対日問題を協議した(カイロ会談)[658][659]。ルーズベルトは蔣介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蔣介石に渡そうと目論んでいた(香港奪還後イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗を立てて植民地統治を再開したのでこの企みは阻止できた)[660]。さらに戦後には中華民国を第四の大国にしようなどという構想さえ思い描いていた[661]。チャーチルは中華民国など全く興味がなかったし、蔣介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四の大国にしようなどというアメリカの考えには到底賛成できなかった[661]。, 続けて、11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・テヘランでルーズベルトとスターリン、チャーチルの初めての会談を行った(テヘラン会談)。ちょうどこの会議中にチャーチルは69歳の誕生日を迎えたため、3人はバースデーケーキの前で会談した[662]。この会議で翌年5月にも米英軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、それに呼応してソ連軍が攻勢に出ることが約束された[657][663]。またチャーチルは地中海のイギリスの覇権を確保しようとエーゲ海方面での作戦を提案したが、ルーズベルトに阻止された[663]。会議ではスターリンの高圧的な態度が目に付いた[664]。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリンに好感を持っていた[659]。何百万人も殺戮してきたスターリンに好感を抱くルーズベルトとは感覚が違い過ぎることを痛感させられる場面もあった。戦後のドイツ軍将校たちの処分について三巨頭の間でこのような会話があったという[665]。, 1944年6月6日にはドワイト・アイゼンハワー元帥率いる連合国軍がノルマンディー上陸作戦に成功し、ドイツにとっての西部戦線が形成された。これに呼応してイタリア半島戦線の英米軍や東部戦線の赤軍も攻勢を開始(バグラチオン作戦)した。ドイツは1943年から本格化した連合国軍の空襲に苦しめられ燃料やベテラン兵員の不足によりこのような大規模な一斉攻勢を抑える力はもはやなかった。8月24日にはパリが陥落、1944年末までにはフランス全土からドイツ軍は駆逐された。11月11日にチャーチルはパリを訪問し、臨時政府大統領となったシャルル・ド・ゴールとともに無名戦士の墓に花をささげた[666]。, 一方、チャーチルの懸念はもはやドイツではなく、戦後のソ連の脅威であった。ゲリラが多いバルカン半島は戦後共産化してソ連に呑み込まれる可能性が高かった。チャーチルは、これを阻止すべく1944年8月にもユーゴスラビアのチトーと会見し、ユーゴを共産化しないとの言質を得ている[667]。10月にはモスクワを訪問し、スターリンとの間にバルカン半島諸国の英米ソの勢力割合を話し合った[668][669]。, 同じ月にイギリス軍はギリシャへ上陸して同国を占領したが、12月には共産主義勢力ギリシャ人民解放軍が反乱を起こす。チャーチルはこれを徹底的に鎮圧させた。これには「イギリス人はドイツと戦ってきたギリシャの愛国者たちをアメリカの武器で殺している」としてアメリカやイギリス国内から批判が起こったが、この時のチャーチルの処置のおかげでバルカン半島の中でギリシャだけは共産化を免れた[670]。チャーチルは回顧録の中で「ナチズムとファシズム亡き今、文明が直面しなければならない危険は共産主義であることを私は見抜いていた」と書いている[670]。, 1945年2月、ソ連領クリミア半島のヤルタでスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭によるヤルタ会談が行われた。ドイツを無条件降伏させ、その後、英米ソ仏で分割占領することがこの会談で取り決められた。当初、ルーズベルトとスターリンは英米ソの三国だけで分割占領するつもりだったが、チャーチルの説得でフランスも入れられることになった[671]。この会談で日本と中立条約を結ぶソ連が対日参戦する密約も結ばれた[672]。, この会談で一番揉めたのはポーランド問題だったが、これは結局ソ連優位で妥協する形となり、ソ連が送る「民主的指導者」がポーランドを統治することが取り決められた[673]。チャーチルは回顧録の中で「これが米英ソの同盟関係を破綻に導く最初の大きな原因となった」と書いている[674]。, また国際連合に関する構想もヤルタ会談で本格的に具体化された。大国の拒否権制度もこの時に決まった。チャーチルも「我が国の帝国主義的利益を守るためには必要不可欠」として拒否権制度に賛成した[674]。ちなみに国際連合はヤルタ会談で開催が決められた1945年5月のアメリカ・サンフランシスコでの連合国会議において正式に創設されている[674]。, 1945年春に英米軍と赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月30日にヒトラーは赤軍が迫り来るベルリン内の総統地下壕内で自殺に追い込まれた。ヒトラーの遺書の指名でドイツ大統領となったカール・デーニッツ提督は5月8日に無条件降伏し、ヨーロッパ戦争は終結した[675]。, 「V-Eデー」と呼ばれたこの日は、1918年の第一次世界大戦終結時のようにビッグ・ベンが鳴り、人々は街に繰り出してお祭り騒ぎとなった。庶民院議員たちはみんなでウェストミンスター寺院に参拝し、神に感謝を捧げた[676]。チャーチルはジョージ6世ら王室メンバーとともにバッキンガム宮殿のバルコニーから観衆に手を振った後、保健省のバルコニーから群衆に「これは諸君の勝利である」と宣言し、皆で愛国歌「ブリタニアよ、支配せよ」を熱唱した[675]。, 「V-Eデー」によりアジアを除く戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、レヴァント地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した[677]。, しかしそれは幻想だった。ビルマにおける日本軍との戦いは終わりに近づいていたものの、未だにマレー半島やシンガポール、香港などの旧植民地は日本軍の占領下にあった上に、これらのアジアの植民地におけるイギリスの権威は完全に失墜していた。さらにもはやイギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、実際にこの後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立した。, さらにイギリスの海外投資は戦前の4分の1に激減し(ケインズの試算によると、日本軍による攻撃以外に本土に対する攻撃を受けなかったアメリカの損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。武器貸与法は失効し、米英借款協定(Anglo-American_loan)によって物資をローンで購入したせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった[678][679]。, 勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている[680]。, 自国の没落に加えてチャーチルが不安だったのは、スターリンの台頭であった。1945年4月に、スターリンと仲よしのルーズベルトの死でアメリカ政府もようやく共産主義を危険視するようになったものの、すでに手遅れな感があり、東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下に堕ちていた。チャーチルは回顧録の中で「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と書いている[681]。, 1935年以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた[682]。労働党も1944年の党大会で戦争終結後の総選挙では、挙国一致内閣を解消して野党として戦うことを決定していた[683]。, ドイツ降伏で労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。チャーチルは「日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきである」と主張したが、労働党はそれを拒否した[684][685]。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった[684]。, チャーチルは1945年6月15日にも庶民院を解散し、7月5日に総選挙が行われた[682]。労働党は「未来に目を向けよう」をスローガンに社会保障政策やイングランド銀行、燃料・動力産業、鉄鋼業の国有化など社会改良主義政策を主張した。対するチャーチル率いる保守党も社会保障政策を公約に掲げていたが、その訴えはチャーチルの戦功を誇示し、また労働党と社会主義政策を批判することを中心としていた[686]。チャーチルはラジオ演説で労働党やアトリーが主張する政策は「社会主義である」として批判し、「社会主義は全体主義や卑屈な国家崇拝と不可分の存在」「教条主義的社会主義者は自由な議会を敵視する」「社会主義のたどり着く先はゲシュタポの弾圧政治」と国民に訴えたが、つい先日まで彼の内閣の閣僚だったアトリーをゲシュタポ扱いする罵倒は評判が悪かった[687][688][689]。またチャーチルは、保守党、労働党のどちらが政権を握ってもイギリスの外交上の一貫性が保たれるよう、ソ連占領下ドイツ・ポツダムで開催予定の米英ソ三国首脳によるポツダム会談にアトリーも連れていこうと考えていたが、これに対して労働党全国執行委員会のハロルド・ラスキ委員長は強く反対し、アトリーに行かないよう指示を出した[690][691]。アトリーは議会内労働党の党首だが、労働党の党規約では全国執行委員会が党内での地位が最も高く、議会内労働党もその指示に従わねばならなかった[690]。チャーチル率いる保守党はこれを労働党の「党指導部絶対」「議会政治軽視」の体質と批判した[690]。保守党は「ナチス総統ラスキ」などという表現を使って批判運動を行ったため、逆に保守党の方が批判を招く結果となった[692]。総選挙の結果は労働党394議席、保守党213議席、自由党12議席という労働党の大勝に終わった[693]。, この選挙結果については様々な説があるが、前述の個人攻撃についての不評よりも、慢性的な保守党の人気の凋落が原因と考えられる[692]。ギャラップの世論調査によれば、チャーチルの人気は高かったものの、労働党は1942年以降順調に支持率を上げており、それに勝てなかっただけということのようである[694]。また労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していない[691]。, ともかくこの議席差ではチャーチルは退任せざるを得ず、7月26日に国王ジョージ6世に辞表を提出した。国王からの慣例の次期首相の下問に対してアトリーを推挙した[695]。またこの際に国王からガーター勲章を授与するとの叡慮があったが、「選挙に敗れた首相が、どうして陛下からガーター勲章を頂けますでしょうか」と述べ、拝辞した[696]。, 下野したチャーチルは70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった[697]。1945年8月に日本が連合国に対して降伏し、第二次世界大戦が終結したことを受けて、この後に『第二次世界大戦(英語版)』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった[697]。, チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年にはノーベル文学賞の受賞にも至っている[698]。しかしチャーチルはノーベル平和賞を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したという[698]。, 労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった[678]。これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判した[699][700]。, 老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年3月にアメリカ・ミズーリ州フルトン(英語版)で「鉄のカーテン」演説を行った[701][702]。, さらにこれに対抗する「英語諸国民の兄弟としての団結」を訴えた。これ以降、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」と批判した[701]。, 一方ルーズベルト時代の親ソ方針を全面破棄する事を決意していたアメリカのトルーマン大統領もチャーチルのフルトン演説にこたえて、1947年3月にトルーマン・ドクトリンを発表し、ソ連封じ込めの反共政策をアメリカの公式政策に決定した[703][704]。イギリス労働党政権は初めこうしたアメリカやチャーチルの反共姿勢に反対し、イギリスをアメリカとソ連の中間に立つ「第三勢力」にしようと考えていたが、二次大戦で消耗したイギリスは、マーシャル・プランに参加してアメリカの援助を受けなければならない弱い立場だったため、最終的には労働党政権もアメリカに従って行動する路線を選択することになった[705]。, チャーチルは共産主義に対抗するため、西側ヨーロッパ諸国を一つにまとめる必要性を痛感し、1945年11月からヨーロッパ合衆国構想を盛んに主張するようになった。1946年夏、いまだヘルマン・ゲーリングらドイツ人戦犯に対するニュルンベルク裁判が行われていたこの時期にドイツもこのヨーロッパ合衆国の中に加えるべきと提案して人々を驚かせた[706]。この構想は1948年3月の西欧同盟、1949年5月の欧州評議会などで結実を見た[703]。アメリカも1949年4月にはヨーロッパ反共体制の北大西洋条約機構(NATO)を発足させている[707], 一方共産主義陣営も攻勢を強めていた。1948年2月には東欧で唯一西側に開かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生し、同国が共産化された(チェコスロバキア社会主義共和国)[705]。同年8月にはソ連がベルリン封鎖を強行した[708]。1949年9月にはソ連の原爆保有が判明し、西側諸国に衝撃を与えた。同年10月には中国の国共内戦が毛沢東率いる中国共産党軍の勝利に終わり、蔣介石らは台湾へ追われ、中国共産党率いる一党独裁国家の中華人民共和国が成立してしまう[705]。, さらに1950年6月には朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発した。イギリス労働党政権は「韓国が侵攻を退けるのに必要な支援を行う」とした国連決議に基づき、日本の占領業務を行っていたイギリス連邦占領軍を改変し、朝鮮イギリス連邦軍を組織し派遣した[709]。もちろん保守党もこの出兵を支持した[710]。, この頃のイギリスにとって、共産主義と並ぶもう一つの脅威は植民地民族運動の激化であった。労働党政権時代にインド、パキスタン、スリランカ、ヨルダン、イスラエルなどが続々と独立し、長きにわたる大英帝国のアジア中近東支配に終止符が打たれた。同時期フランスも植民地民族運動に悩まされて植民地帝国崩壊の瀬戸際に立たされていた。しかしフランスが強引に植民地を維持しようとしてインドシナやアルジェリアで泥沼の内戦に陥っていったのに比べると、イギリス労働党政権は「引き際を心得ていた」と評価されている[711][注釈 11]。, だが帝国主義者チャーチルにはもちろんそんなことは認められなかった。「大英帝国はアメリカの借款と同様に急速に減少している。その急速さには慄然とさせられる。『逃亡』、これが唯一ふさわしい言葉だ」「労働党は我らの先人たちが200年の時を費やして行ってきたことの全てを、インド帝国とともに投げ捨てた。」と批判した[711]。, 1950年2月の解散総選挙があった。争点はほとんど国内問題に集中した。というのも労働党政権の積極的な反共外交は保守党としても文句のつけようがなかったからである。植民地放棄には不満もあったが、今さら植民地回復は不可能であり、保守党も代替案は出せなかった[712]。選挙戦で労働党は5年間に行った社会改良政策の実績を誇り、対する保守党は労働党政権は国民全員に耐乏生活を押し付けただけと批判した[713]。, 選挙結果は労働党315議席、保守党298議席、自由党9議席をそれぞれ獲得し、労働党と保守党の議席差は17議席差にまで縮まった[714][712][715]。保守党は大幅に失地回復したものの、政権を獲得できず、失望感が広がった[712]。だが、過半数をわずか8議席上回ったに過ぎない労働党の政権維持は困難になった。落ち目になったことで労働党内の党内紛争も激化していった[716]。政権運営に行き詰ったアトリーは1951年10月にも庶民院を解散して解散総選挙に打って出た[717]。, この頃、チャーチルが40年前に創設したアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府によって国有化された。激怒したチャーチルはイラン政府を激しく批判したので、チャーチルは「戦争挑発屋」か否かというのがこの選挙の争点の一つとなった[718]。選挙戦でチャーチルは、労働党政権の北アフリカ政策や中近東政策の愚策を批判し、「スーダン、アーバーダーン、アニュエリン・ベヴァン」は三大惨事であると主張した[719], 選挙の結果、保守党が321議席、労働党が295議席を獲得し、保守党が政権を奪還した[720]。得票数の上では労働党の方が上回っていたが、小選挙区制度の賜物で保守党が勝利した[721][722]。, こうして6年ぶりに保守党が政権復帰し首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった[723]。任期中の1952年2月6日にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した[696][724]。1953年には女王よりガーター勲章を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる[696]。, 政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を民営化したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した[725]。住宅地方大臣ハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した[725][718]。, 1953年3月のソ連でのスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった[726]。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった[727]。東西は「雪解け」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐるジュネーヴ協定が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした[727]。, しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。西ドイツを反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ[728]。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦)。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた[729]。1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した[729]。, 一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、アトリー前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった[729]。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった[729]。1952年にケニアでマウマウ団の乱が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した[730]。, 1953年に『第二次大戦回顧録』などでノーベル文学賞を受賞。現職の国家指導者が同賞を受けたのは、現在までチャーチルのみである(後にシャルル・ド・ゴールがフランス大統領在任中の1963年に候補となっていたことが明らかになった)。1954年11月30日に80歳を迎え、グラッドストンに次ぐ高齢首相となった[726]。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語りだすばかりになっていた[731]。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した[732]。後任の首相・保守党党首になったのは外相サー・アンソニー・イーデンだった[733][726]。退任にあたってエリザベス2世女王は「伯爵位を与える」との叡慮を示したが、チャーチルは「庶民院議員として政治家を続けること」を希望し、これを拝辞した[725]。, 首相退任後も1955年の総選挙、1959年の総選挙で当選を果たして庶民院議員を務め続けたが、政界の表に立つことはなかった。1956年にイーデン首相が第二次中東戦争の失敗で退任した際に一部にチャーチル待望論も出たが、実現はしなかった[734], 1963年にアメリカ連邦議会から「アメリカ名誉市民」の称号が授与された。ホワイトハウスでの授与式には長男ランドルフが代わって出席し、チャーチルはメッセージだけ送った。そこには「私はイギリスが『おとなしい役割に追放された』という見解を拒否する」と書かれていた。これに対してアメリカの元国務長官ディーン・アチソンから「イギリスは帝国を失い、新しい役割は見つけられていない」と嫌味を返された[733]。, 1960年代に入った晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなっていた[735]。また頻繁に涙を流すようになったという[736]。老いてもチャーチル人気は健在で、毎年チャーチルの誕生日の前夜にはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷の周りに人々が集まってきた。チャーチルも屋敷の窓に立ち、集まってくれた人々に向けてVサインを送っていた。, 1964年11月29日にもチャーチルは元気な姿を群衆に披露したが、これが公衆に見せたチャーチルの最期の姿となった[737]。1965年1月8日に脳卒中で左半身がマヒし、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠した。最後の言葉はなかったという[737]。奇遇にもこの1月24日は父ランドルフの命日であった[738]。, エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を納めた棺は3日間ウェストミンスター・ホール(英語版)に安置された。国民の弔問が許可され、30万人もの人々が訪れた[739]。その後、チャーチルの棺は国葬でセント・ポール大聖堂まで送られた[740][739]。セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席した。イギリスには「君主は臣民の葬儀に出席しない」という慣例があり、これはその慣例が初めて破られた事例であった[741][742]。, 遺体はブレナム宮殿の近くブラドンのセント・マーティン教会墓地に葬られた[740]。ここはチャーチルの両親が葬られた墓地であり、チャーチルも両親の墓の近くで眠っている[742]。, ロンドン・ウェストミンスター・ボンド・ストリート(英語版)にあるルーズベルトとチャーチルの像, チャーチルはロイド・ジョージと並ぶ「急進派のリーダー」として知られていたが、1909年頃からロイド・ジョージともども自由帝国主義者となった[743]。チャーチルの帝国主義はある程度の柔軟性があったものの、基本的には絶頂期のヴィクトリア朝大英帝国が未だ続いているかのような幻想の帝国像を思い描いていた[744]。若い時のキューバでの反乱鎮圧経験から、「イギリス人の支配民族としての責任感を強くすれば、搾取ではなく、被支配民族に慈悲を与えるものとなっていく」という考えを抱いていた[89]。, チャーチルは第二次大戦中の1942年11月に「私は大英帝国を清算するために首相になったのではない」と宣言した[745][746]。これはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたアメリカのルーズベルト大統領をけん制した演説だった[746]。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国主義精神を批判し、面と向かって「貴方の血には400年の植民地獲得の本能が流れている」などと発言してきたこともある[746]。一方チャーチルの方もルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言い返したことがある[746]。, チャーチルが独伊で独裁政治を敷くアドルフ・ヒトラーやムッソリーニに対して抱いていた共感の一つに「優等文明は劣等文明を支配・指導する」という理論があった。, チャーチルは常々インド人やインド文明を「劣等視」し、「イギリスによって支配されることが必要不可欠」と確信していた。「インド人に選挙制度を与えるべきか否か」聞かれた際にチャーチルは「彼らはあまりにも無知なので誰に投票したらいいか分かるはずもない。彼らは人口45万人の村で4、5人が集まって村の共通の問題を討論するような簡単な組織さえ作ることができない身分の卑しい原始的人種なのだ。」と答えている[747]。, 世界中の人たちが、「日露戦争で(イギリスの同盟国ではあったものの)有色人種国家の日本人が白人種国家のロシアを打ち破ったこと」を目のあたりにし、第二次世界大戦が始まる頃には、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど白人自治政府は帝国に忠実だったものの、インドやマレー半島、ビルマなどの有色人種の植民地の住人たちはもはや忠実ではなくなっていた。この頃には有色人たちも情報を多く入手するようになっており、「戦争の意味」や「帝国に支配され続ける意味」に疑問を感じはじめていた。, そして彼らの多くが枢軸国と連携することで、過酷なイギリスの植民地支配に立ち向かった。たとえばイギリス委任統治領パレスチナのイスラム教最高指導者(大ムフティー)であるアミーン・フサイニーはドイツへ逃れ、「ムスリム解放軍」を組織してイギリスに反旗を翻した。英領ビルマの民族主義者アウンサンも日本へ逃れて「ビルマ防衛軍」を組織した。イギリス領インド帝国のチャンドラ・ボースもドイツで「自由インド部隊(ドイツ語版)」、日本や日本統治下のシンガポールで「インド国民軍」を組織し、イギリスと戦った[748]。, 1942年の日本軍のマレー作戦によるシンガポール陥落は、アジアにおけるイギリスの威信を決定的に崩壊させた。勇気を得たインド人たちは、同年から反英闘争「インドから出て行け」運動を開始した。これに対してチャーチルは徹底的弾圧をもって臨み、ガンジーやネルー、ヒンズー教指導者など1万人以上の者を投獄した。だが、それもむなしく大戦が終わるまでにイギリスの植民地支配体制は根底から揺さぶられた。枢軸国と協力したチャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボース、A.M.ナイルそして彼らの指揮下にあったインド国民軍の兵士たちが殉教者としてインド国民の間で英雄視されていくことにイギリス人たちは落胆した[749]。, チャーチルが恐れていた通り、戦後の労働党政権がインドの民族主義者たちに譲歩の姿勢を見せた時、後は全てが時間の問題となり、一気にインド独立まで突き進んでいった。イギリスがインドを放棄した後、マレーやビルマなど他のアジア植民地もなし崩し的に独立していった[750]。波及はアジアに留まらなかった。第二次世界大戦中、イギリス軍はアフリカ植民地の住民たちを駆りだしてドイツ軍や日本軍と戦わせていた。この戦いを通じてアフリカ人兵士たちは「絶対的支配者」だと思っていたイギリス人が無敵の存在でもなんでもないことを知った。彼らは復員した後、第二次世界大戦での見聞を生かしてイギリス植民地支配との戦いの主力となり、ついにアフリカ各国の独立を実現した[751]。, 戦後のアジアとアフリカの独立の嵐が過ぎ去ったあと、イギリスに残されたものはイギリス連邦という加盟国を縛る規則が何もなく、「女王を戴くか否か(=君主制を維持するか共和制へ移行するか)」までもが自由という奇妙な連邦だけだった[752]。, ヒトラーも自殺の少し前に「大英帝国はすでに滅びる運命にある」と予言し、チャーチルを「帝国の墓掘り人」と呼んで批判していた[753]。ヒトラーによれば「チャーチルがフランス戦後すぐにドイツとの講和に応じていれば、大英帝国は引き続き繁栄を謳歌していただろう」という。そして「こんな大酒のみのユダヤ化した半アメリカ人(チャーチル)ではなく、小ピットのような人物がイギリスを差配するべきだった」と結論している[676]。, 第一次世界大戦前の自由党政権時代、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進派閣僚として多くの社会改良政策に取り組んだが、第一次世界大戦後に2人の道は隔てられた。ロイド・ジョージは生涯社会改良政策に情熱を捧げたが、チャーチルの方は「アカの恐怖」に捕らわれていったからである[754]。第一次世界大戦後の列強諸国による反ソ干渉戦争の最大の推進力はチャーチルであった。チャーチルは「歴史上のあらゆる専制の中でもボルシェヴィキの専制は最悪であり、最も破壊的にして、最も劣等である。『ドイツ軍国主義よりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配下のロシア人は帝政時代よりずっと悲惨な状態に置かれている。レーニンやトロツキーの残虐行為はカイザーのそれを軽く超える」、「ボルシェヴィズムは政策ではなく、疫病である。思想ではなく、ペスト菌である」「私がボルシェヴィキを嫌悪しているのはその愚かな経済政策や不合理な主義の故ではない。奴らが侵入した土地にはその犯罪的体制を支えるために赤色テロが行われるからだ」などと共産主義国であるソビエト連邦への敵意を煽る演説を盛んに行った[755][756]。, 第二次世界大戦中に行われた「テヘラン会談」や「ヤルタ会談」などの連合国軍同士の会議においても、チャーチルはソビエト連邦のスターリンとは幾度も衝突し、終いには同盟国であるアメリカのルーズヴェルト大統領とスターリンが親しくなる始末であった。, チャーチルの反共はその後、死ぬまでずっと続いた。第二次世界大戦後も反共演説を続け、「ボルシェヴィズムはその誕生の時にくびり殺しておけば、人類にとって計り知れない幸福があったであろう」「共産主義者と議論をしても無駄だ。共産主義者を改宗させたり、説得しようとするのも無駄だ。もっと容赦なく実力を行使し、何が起ころうとも道徳的配慮などしないということをソ連政府に理解させることが唯一の平和への道だ。」「アメリカの原爆のみがソ連の軍事侵攻を抑えているのだ。」[727]。, 一方でチャーチルは共産主義者であってもレーニンだけは(忌み嫌いつつ)ある種の畏敬の念を抱くことがあった。レーニンについて「彼の慈愛は北極海のように冷たく広い。彼の憎悪は絞首刑執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ」と評している[757]。, ロイド・ジョージは後年、チャーチルについて「彼は共産主義を心から憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を病的に嫌悪する余り、帝政が凋落した原因を冷静に分析することができなかった」と評している[756][383]。, ずっと議会政治の中で生きてきたチャーチルは基本的に議会主義者である。だが、1930年前後に世界各国で議会政治が終焉ないし後退していく中、チャーチルも議会主義はもう終わった思想であり、独裁政治にこそ未来があると考えた時期があった。1930年に出版されたオットー・フォルスト・デ・バタグリア(ドイツ語版)著『試される独裁政治』の英語翻訳本でチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドのピウスツキなど権威ある国家指導者たちが、弱体にして非効率的、しかも民意を反映していない議会政治に取って代わる日は近い」という前書きを寄せている[758][759]。, しかし1935年頃からヒトラーとの対決姿勢を強めていくにつれて再び議会主義を旗印とするようになった。ヤルタ会談の際、チャーチルはスターリンとルーズベルトに対して「ここにいる3人の中でいつでも選挙で国民から放り出される危険があるのは私だけだ。だがその危険があることを私は誇りに思っている」と述べたという[760]。ただし戦時中にはチャーチルもほぼ独裁者であった[761][653]。, 1945年の総選挙において、議会外組織が議員を含めた党全体を指導するという労働党を「議会政治軽視」としてナチ党になぞらえて批判したことは前述したとおりである。, チャーチルはアーサー・バルフォアと並び、ハイム・ヴァイツマンに感銘を受けて英国政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家の一人である[762]。首相在任中にもチャーチルはしばしばユダヤ人のパレスチナ移民を増加させたがっていたが、外務大臣アンソニー・イーデンが現地アラブ人の反発を買って中東駐留英軍が危険に晒されかねないと反対して押しとどめていた[763]。, 第二次大戦前・戦中、アメリカ世論は概して反ユダヤ主義的であり、ユダヤ人の問題についてはナチス・ドイツの主張に共感を寄せる者さえ少なくなかった。アメリカ政府もユダヤ人を救うための行動をほとんど起こそうとしなかった。一方チャーチルはユダヤ人に同情し、ホロコーストについて「この殺戮は恐らく世界史上最大かつ最悪の犯罪行為である」と怒りを表明し、アウシュヴィッツ強制収容所のガス室を空爆してユダヤ人を救出すべしと訴え続けた。しかし米英政府内でそんなことを主張しているのはチャーチルだけであり、「軍事施設以外の空爆など費用と時間の無駄」とアメリカ軍に反対されて退けられてしまった[764]。, 個人的にもチャーチルはユダヤ人との交友が多く、しばしば金銭援助も受けた。1938年に借金がかさみすぎてチャートウェル邸の売却を検討せねばならない家計難に陥ったことがあったが、ユダヤ金融業者サー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金を肩代わりしてくれた[765]。首相時代にはロスチャイルド家の第3代当主ヴィクター・ロスチャイルド男爵を自らの護衛隊員として側近に置いていた[766]。, チャーチルは「輝かしい栄光を残して滅びよ」という持論を持っており、ヒトラーと同じく死守命令を好んだ[767]。また「空襲で確実に敵国心臓部に打撃を与えていく」という確実な戦法より、強襲、ゲリラ戦、おとり作戦、罠など派手な作戦を決行することを好んだ[768]。, チャーチルは自らが指揮に携わった第二次世界大戦を「不必要な戦争」と呼んでいた[552]。, チャーチルは最晩年には「私は非常に多くのことをやってきたが、結局何も達成することはできなかった」と語るようになった。チャーチルの二度の世界大戦の『勝利』は大英帝国の崩壊と米ソの世界支配をもたらしただけだった。「大ブリテンは神から選ばれ、世界を導く義務を負っている」というチャーチルの信念は崩れ去った[769]。, チャーチルは「涙もろく、小鳥が死んだだけでも泣く人」だったが、一方で「真の同情は持っていないことが多かった」という意見もある[599]。, 1917年にフランス首相・陸相に就任したジョルジュ・クレマンソーは70代の高齢でありながら血気盛んな人で、しばしば砲火に身をさらすことも厭わなかった[354]。チャーチルは他の政治家を尊敬するということがほとんどない人だったが、その唯一の例外はこのクレマンソーであった。特にクレマンソーが「私は何の政治的原則もない男だ。私は現実に起こる事象を経験に照らし合わせて処理するだけだ。」と語ったことにチャーチルは共感を持った[770]。チャーチルはクレマンソーの「私はパリの前面で戦い、パリ市中から戦い、パリの後方でも戦い続ける」という言葉を拝借した[770]。, チャーチルはムッソリーニに非常な興味を持ち、彼の著作を読み、その生涯を調べることに熱心だった。とりわけ彼のローマ帝国を復活させて「劣等の文明」を支配して導こうという「帝国の使命」の思想には同じ帝国主義者として強い共感を持っていた。後の第二次エチオピア戦争とイタリア領東アフリカ帝国建設も高く評価していた。1940年にフランス戦役が勃発して英伊が交戦関係となった後にさえも「(ムッソリーニが)偉大な男であることは否定しない」と述べていた[771][747][516]。また「この独裁者には共産主義からイタリアを守った功績がある。だが彼の失敗は1940年6月にヒトラーの勝利に惑わされてイギリスに宣戦布告してきたことだ。この時に彼は誤った道に進んでしまった。もしあの時に中立を保っていれば、この戦争を利用して更なる繁栄に至ったであろうに。」と惜しんでいる[658]。, ガンジーを嫌い、「アジアによくいる托鉢に成り済ました英国法学院卒業の扇動家ガンジー弁護士が、半裸姿で陛下の名代たるインド総督と対等交渉している。このような光景を許していればインドの不安定と白人の危機を招く」と警鐘を鳴らし、さらにガンジーを「狂信的托鉢」と断じた[492][772][773]。, チャーチルはヒトラーを歴史的文脈で捉えており、スペイン王フェリペ2世、フランス王ルイ14世、フランス皇帝ナポレオン、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世といったイギリスが常に戦ってきた「ヨーロッパの勢力均衡を崩す者」に連なる存在だと考えていたのである[774][775]。, ヒトラーの方もイギリス国内で対独強硬論をまき散らしているチャーチルを「戦争挑発屋」と批判している[540][776]。, チャーチルにとって大きなウェイトを占めるアメリカとドイツには及ばないが、日本も重視した国であり[777]、日英同盟の締結には賛成し、第二次世界大戦への日本参戦に対しては融和工作を行っている[778][779]。チャーチルは基本的に東洋には殆ど興味がなく、日本についても知識が多かったわけではないが[767]、中国について全く興味がなかったのに対し、アジアで数少ない独立国で文明国であり、王室を抱える自国と共通して天皇・皇室を擁く君主制を維持しかつ5大国の一角を占め、その後同盟関係を築いた日本人に対しては一定の親近感を持っていた[780]。, チャーチルが日本を最初に意識したのは父ランドルフ卿と母ジャネットが日本旅行をした明治27年(1894年)である。日本から送られてきた母の手紙の中に日本の写真が同封されており、チャーチルは母への返信で「お母さんからの手紙はとてもうれしいです。写真は美しく、日本の思い出の品として一生大事にしようと思っています」と書いている(この時に日本で撮られた写真が父ランドルフ卿が映っている最後の写真でもある)[781]。, チャーチルは日露戦争において、同盟国である日本が勝利して「朝鮮半島の併合と中国、並びに太平洋諸島に一定の権益を持つ」状況になり、このおかげでイギリスの艦隊が中国から安全に帰国できるようになったことを歓迎した[782]。, 第一次世界大戦でも日本はイギリスとともに連合国として参戦したが、日本が中国への21カ条要求で権益拡張を主張するようになると、中国における自国の利権が侵されることを恐れたアメリカが反発し、アメリカがイギリスに対して日英同盟の破棄を促し、その結果日英同盟は1921年のワシントン会議で破棄された[783]。, 日英同盟が破棄された理由について、1936年にアメリカの雑誌「コリアーズ(英語版)」への寄稿文「日本とモンロー主義」の中でチャーチルは、「イギリスはアメリカとイギリス連邦との関係を分断するような目標は追求しないというのが方針であり、日米関係の悪化によってアメリカの圧力によって破棄せざるをえなかった」と述べたうえで、「しかし、日英同盟の破棄は歴史の悲劇的な一章となるかもしれない」と書き、また「日本は同盟破棄を日本の人種差別撤廃要求に対する侮辱的な回答として受け取ったが、英米はこの点について理解不足であった」と認めている[784]。, 1931年9月の満洲事変の際には侵略と批判する声もあった中、チャーチルは「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」、「これで中国も少しは収まるだろう」として支持を表明した[785][780]。ただし満洲事変は、チャーチルのみならず、当時イギリス世論や政界は一般的に支持する者が多かった。腐敗し国民からの支持も低かった中華民国の政府は統治能力がなく、また蔣介石政権が日本の合法的な通商権益を無法に犯していると考えられていたからである[786]。, 一方、昭和期に起きた軍人によるクーデター未遂事件や政治テロ事件である、1932年の「五・一五事件」や1936年の「二・二六事件」に対しては憂慮し、「偉大で名誉ある日本の政治家たちが次々と暗殺者の手にかかってしまった。尊厳と神聖性を持つミカド(Japanese Emperor)とその政府(His Majesty's Government)は懸命に犯罪者を処断したが、日本がこの不可欠の処置を取るのに悲痛な努力を必要としたこと自体に英米は注目している」と述べている[787]。, チャーチルは、イギリスにとって日本は軍事的脅威ではないと一貫して論じていたが、1936年に締結された日独防共協定は、事実上の「日独軍事同盟」であるとみて警戒し、さらに1937年の日中戦争(支那事変)によって日英の利益はますます衝突するようになった[788]。しかしこの頃チャーチルは「日英同盟を破棄したのは間違いだった」と考えるようになった[789]。1936年には「日本は昔、国外に目を転じたローマのようである。(略)日本の中国への浸透は日中あるいは日ソ間の戦争をもたらすであろう。日中間の戦争は中国に勝ち目はないであろうが、ソ連との戦争は日本にとって危険である」と述べている[790]。, 1939年9月にはドイツがポーランドに侵攻し、イギリスも宣戦布告し第二次世界大戦となった。しかし、チャーチルはその後も日本とドイツを引き離す努力を続け、第二次大戦開戦後の1940年5月17日に、チャーチルは駐英日本大使館において、日本が参戦しないよう(ドイツと同様にイギリスの敵国とならないよう)欧州戦線について淡々と言及した[788][791]。, 当時の重光葵駐英大使はそれまでチャーチルを「平時の器でなく、変事の才」とみて反日的な政治家とみなしていたが、国家存亡の危機という難局に直面して動じないチャーチルに感嘆し、これを機にチャーチルとの日英関係調整に鋭意取り組んだ[792]。しかし、重光の報告は日本政府各省のなかで回覧されることはなかった[791]。, 1940年の夏から1941年の夏頃にかけては、チャーチルは日本との開戦を避けるべく努力していた[793]。1941年11月10日のロンドン市長午餐会では日英関係の悪化を悲しむ発言をしているが、結局、日英開戦を回避することはできなかった[794]。1942年2月15日、日本軍がシンガポールを攻撃してイギリス軍に勝利をおさめた際にはチャーチルは大きなショックを受け、議会で日本の行動を「犯罪的狂気」にたとえている[795][要文献特定詳細情報]。大戦末期のポツダム会談では、チャーチルは日本に対して比較的融和的な態度をとるべきだと主張したが、アメリカ大統領トルーマンは同意しなかった[796]。日本の降伏を決定づけさせた日本への原子爆弾投下については、もし原爆を使わずに日本本土上陸作戦を決行した場合、「100万人のアメリカ人とその半数のイギリス人が死ぬ」という見積りを立てていた[797]。, 1953年にエリザベス2世女王の戴冠式に出席するため、イギリス同様の君主国である日本から皇室の代表として皇太子明仁親王(後の明仁上皇)が昭和天皇の名代として訪英した。だが当時イギリスでは反日感情が強く、アジア・太平洋戦線において日本軍に虐待されたイギリス軍捕虜の体験を描いた出版物はベストセラーとなったほか、反日映画は高い興行収入を挙げ、メディアでは反日姿勢の報道が連発し、在留邦人はイギリス人から嫌がらせを受けるという有り様だった[798]。チャーチルは日英関係改善のため、明仁親王の身の安全などに関して非常に気を遣った[799]。明仁親王のための午餐会には、当時日本批判の先頭に立っていた新聞業界人を招待し、首相自らが日本の皇太子を大切な賓客として鄭重にもてなすことを眼前に披露し理解を深めてもらうことで、これらの新聞による反日論調を押さえようとした[800]。席上チャーチルは日英両国は立憲君主制という共通の紐帯を持っているとして立憲君主制の重要性を論じた[801]。, 皇太子訪英に続いて、1954年10月には吉田茂首相が訪英した。元駐イギリス特命全権大使であった吉田はずっと訪英を希望していたが、反日機運の強いイギリス世論に配慮してイギリス政府から拒否され続けていた。だが前年の皇太子訪英中にチャーチルが吉田の訪英を許可し、実現に至った。皇太子訪英のおかげで日英関係は改善に向かい始めたとはいえ、未だ反日世論は根強く、歓迎ムードはなかった[802]。反共主義者同士であるチャーチルと吉田は、共にアメリカの同盟国たる西側陣営の一員として共産主義問題を話し合った[803]。また「吉田から送られた安田靫彦の富士山の絵を、チャーチルは非常に気にいった様子だった」という[804]。, 1957年には、岸信介首相が訪英し、チャーチルの私邸を訪問した。この時チャーチルは富士山の絵を指して、「いつか訪日して自分で富士山の絵を描いてみたかったが、叶いそうもない」と語ったという[805]。, チャーチルが命じる数々の無謀な作戦には帝国参謀総長アラン・ブルック大将やアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将も頭を抱えた[806]。チャーチルの無謀な作戦のために多くの人間が死に追いやられていったが、彼は誰が死のうとほとんど関心を持たなかった[599][807]。, チャーチルは戦争を騎士道的な決闘ゲームのように考えていたため、栄光を残すためだけにこういう不合理な作戦を平気でやった。対して合理主義の権化であるアメリカ人たちは戦争など物量と物量のぶつかり合いでしかないのだから、相手の物量を叩き潰す空襲だけが重要と考えて、チャーチルの無駄な行動には不満を抱く者が多かった[768]。, チャーチルは自分が「選ばれた者」であり、全ての運命を決定する存在なのだと思い込んでいた[808]。自分の「偉大さ」を追い求め、とりわけ先祖の初代マールバラ公に自分を重ねていた[809]。たとえ自分や自国が実態の上でどれだけ没落していようとも顧みることもなく、自分を超大国の指導者と信じ、アメリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリン大元帥と対等の存在だと思い込んでいた[810]。, 第二次世界大戦中のチャーチルについてはイギリスに独裁者が現れるのは護国卿クロムウェル以来とも評された[761]。, 経済学者ジョン・メイナード・ケインズは1925年のゼネストに共鳴し、『チャーチル氏の経済的帰結』でシティの声ばかり聞いて炭鉱労働者を犠牲にしていると批判した[452][811][812]。, チャーチルの演説は誇張が目立ち、中身がないとも言われるが、演説に盛り込まれる報告は割と詳細だった[813]。, 葉巻をよく噛んでいたが、噛んでいるだけの時も多く、実際に吸った量はそれほど多くはなかったという[814]。酒豪であるが、晩餐会などの席上では酒も飲んでいるふりをしているだけの時が多く、酔い潰れないよう注意を払っていた[815]。, ヒトラーと同様、深夜型の生活を送っていた。通常は朝10時から活動を開始し、深夜2時に就寝していた。朝の眩しさから逃れるため、寝る時はいつも黒い目隠しをして寝ていた。また昼食後には2時間昼寝する習慣があった[816], 猫背なうえに太っていた。猫背は小さい頃から、肥満は30代半ば頃からである。ダイエットのつもりで早足で歩く癖があった[817]。, チャーチルは第一次大戦中にランカスター公領担当大臣に左遷された際に暇な時間がたくさんでき、それ以降、絵画を描くことを趣味とするようになった[818][819][820]。戦争中でも、どこに行くにしても絵の道具一式を持参するほどだった[821]。マーガレット王女から「なぜ風景画しか書かないのです」と聞かれた際にチャーチルは「風景ならモデルに似せる必要がないからです」と答えたという[821]。絵の腕前はなかなか高かったらしく、政治思想からチャーチルにあまり好感を持っていないパブロ・ピカソが「チャーチルは画家を職業にしても、十分食っていかれただろう」と評価している[814]。, チャートウェル邸の屋敷は古ぼけていたので手直しが必要であり、チャーチルも職人たちとともに煉瓦積みに参加し、やがてそれが趣味の一つとなっていった[426][822]。, 読書家でもあり、大きな蔵書を残した。チャーチルは「本を全部読むことができぬなら、どこでもいいから目にとまったところだけでも読め。また本は本棚に戻し、どこに入れたか覚えておけ。本の内容を知らずとも、その場所だけは覚えておくよう心掛けろ」という言葉を残している[823]。, 鼻歌を歌うのが好きだったが、口笛は嫌い、人がやっているのを聞くとすぐに止めにかかったという[824]。, 動物好きであり、犬、ネコ、キツネ、白鳥、金魚などを飼っていた。(チャーチルはヒトラーとは対照的に猫が好きだった)ペットのことで困るとすぐにロンドン動物園に電話して尋ねた[823]。また競走馬も多数所有していた。チャーチルはこれらの馬を大切にし、馬に向かって数分にわたって語りかける癖があったという。また馬が驚くという理由で自動車を嫌っていた[825]。バトル・オブ・ブリテンの緒戦の頃、ロンドン動物園からロンドン空襲があった場合、動物は銃殺せねばならないとの意見が出たが、チャーチルはこの話にショックを受け、「ロンドン中に空襲があれば、火の海になり、死骸の山が累々だ。ライオンやトラはその死体を求めて吠え回る。それを君たちは銃を持って撃って回るのだよ。可哀そうじゃないか」と語ったという[599]。, チャーチルは熱烈な愛猫家で、私邸公邸を問わず必ず1、2匹の猫を置いていた。チャートウェルの屋敷ではミッキーという名のタビ―とともに壮年期を過ごした。ある日彼が大法官と電話をしていると、ミッキーがコードにじゃれつき始めたため、「何をやっているんだ!」と思わず怒鳴ってしまい、チャーチルは誤解を解くために大法官に弁解する羽目になったという。またタンゴというオレンジ色の縞猫は、夕食時には必ずチャーチルの隣の椅子に座り、寵愛と食事のおこぼれを欲しいままにしていたほか、勇敢でケンカ強いネルソンと名付けられたグレーの猫は1940年の首相就任に際しては、官邸に同行している[826]。, なかでも最後の飼猫ジョックは、1962年の88歳の誕生日に贈られた猫で、体はジンジャー、首元と足先が白かった。すぐに無二の親友となった2人はどこに行くにも一緒で、1964年の最後の庶民院登院にも同行したほか、直後の任期を終えて官邸を去るときに撮影された写真にも2人が写っており、ジョックはチャーチルの最期を看取った[826]。, チャーチル家が栄進するきっかけを作ったのは、17世紀のウィンストン・チャーチルだった。このウィンストンは弁護士の息子で、自身も弁護士になったが、清教徒革命の際に王党派の騎兵将校として戦ったこと、また初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズの姪を妻としたことで1660年の王政復古後に成功を掴んだ。イングランド庶民院(英語版)の議員に当選し、また宮内庁の会計官となり、ナイト爵を与えられた[829][830]。, その息子ジョン・チャーチルは公爵となった。ジェームズ2世、ウィリアム3世、アン女王の三代に軍人として仕えた彼は、モンマスの反乱を鎮圧し、名誉革命ではジェームズ2世を裏切って革命の成功に貢献し、大同盟戦争やスペイン継承戦争では対仏同盟軍の総司令官として数々の戦功をあげた[831][832]。アン女王の寵愛を受けた女官サラ・ジェニングスと結婚し、アン女王から引き立てられ、スペイン継承戦争の戦功により初代マールバラ公爵に叙され、またウッドストック (オックスフォードシャー)に広大な所領と、同地にブレンハイムの戦いの戦勝を記念するブレナム宮殿(ブレンハイムの英語読み)を建設するための資金30万ポンドを下賜された[833][834][835][18]。これは戦功に対する恩賞としては前代未聞の大盤振る舞いだった[836]。, 初代マールバラ公爵には無事成人した男子がなかった。議会はマールバラ公爵位を存続させるため特例として女系での継承を許可した[837][834]。これにより初代マールバラ公爵の死後、長女ヘンリエッタが第2代マールバラ女公爵となったが、彼女の息子も早世したため、彼女の死後、マールバラ公爵位は、彼女の妹であるアン(英語版)と第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの間の子第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーに継承された[837][834](第5代チャールズの弟の家系は後にスペンサー伯爵に叙され、その子孫がダイアナ妃である)。, 以降このチャールズ・スペンサーの直系男子がマールバラ公爵位を継承していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名を使い続けたのでチャーチルの家名はこの時に一度消えた[837]。しかしチャールズの孫であり、1817年に当主となった第5代マールバラ公爵ジョージは、ワーテルローの戦いの戦勝ムードの中で武勲ある家名チャーチルを復活させることを許可され、以降「スペンサー=チャーチル」の二重姓を使用するようになった[838][839]。, このジョージの孫にあたるのがチャーチルの祖父である第7代マールバラ公爵ジョン・スペンサー=チャーチルである。彼の代には歴代当主の浪費と、産業化に伴う地主の没落という世相を反映してマールバラ公爵家の家計は相当苦しく、所領や家財を売り飛ばして生計を保つという有様だった[838][840][9]。, 第7代マールバラ公爵には5人の息子があったが、うち3人は早世し、2人が無事成長した。長男ジョージと三男ランドルフ卿である[9]。この三男ランドルフ卿がチャーチルの父親である。, なお、父ランドルフは「Lord(卿)」の称号を持っているが、これは公爵の庶子だからである[29]。イギリスでは法律上貴族であるのは爵位を持つ家の当主のみであり、それ以外はその息子であっても当主の地位を継ぐまでは平民である。伯爵以上の貴族の場合は従属爵位をもっており、その貴族の嫡男は、当主になるまで従属爵位を儀礼称号として使用する。また公爵家・侯爵家の場合は、嫡男の弟たちも「Lord(卿)」の儀礼称号を使用する。ただしどちらも儀礼称号に過ぎず、法的身分は平民である[841]。チャーチルは公爵の庶子の子供に過ぎないから称号を持っていなかった[29]。, アメリカ人の母ジャネットは、1709年頃にイングランド・ワイト島から英領アメリカに移民した開拓者ティモシー・ジェロームの子孫である[834][842]。ティモシーはコネチカット州ウォリングフォードで一財産を築いた[31]。ティモシーの末子であるサミュエルはマサチューセッツ州ストックブリッジの地主として成功を収め、その息子アーロンはアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの親戚の娘と結婚した[31]。アーロンの息子にアイザックがおり、そのアイザックの息子がチャーチルの祖父にあたるレナード・ジェロームだった[31]。, レナードは南北戦争後の復興事業で大きな成功を収め、銀行経営者、ウォール街の投機家、『ニューヨーク・タイムズ』の株主、サンフランシスコと横浜を繋ぐパシフィック・メール汽船会社(英語版)の所有者、競馬場経営者、馬主にもなった[843][31]。彼はニューヨーク州議会議員を1年だけ務めたアンブローズ・ホールの娘クラリッサ・ホールと結婚した。ホール家の伝承によるとホール家にはインディアンのイロコイ族の血が流れているというが、正確なところは不明である[844]。, レナードとクラリッサ夫妻は4人の娘を儲けた。そのうちの次女がチャーチルの母ジャネットであった。ジェローム一家はヨーロッパの上流階級より排他性の強いニューヨークの保守的な上流階級の間では、南北戦争によって莫大な資産を築いただけの田舎者の新興成金として軽く扱われただけでなく、他のニューヨークの新興成金同様に仲間入りすら拒絶され、ニューヨークの名家の御曹司との結婚は事実上不可能であった為、資金力さえあれば出自に関わらず誰でも歓迎していたパリに移住し、フランス皇帝ナポレオン3世から厚遇された[12]。しかし金儲けと競馬とオペラ以外に興味がなく、更に上流階級というものに是非とも入りたいと思わなかったレナードはまもなくパリを離れたが、夫の財力を用いて超名門の貴族と自分の娘たちの縁組を夢見ていた、野心家で見栄っ張りのクラリッサと娘たちは、金さえ有れば外国人でも排除されず、上流階級の人間としてちやほやされるパリで暮らし続け、ジャネットもパリで育った[845]。母子は普仏戦争で一時フランスを離れたものの、戦後パリに戻った[846]。, 1908年9月に軍人の娘クレメンティーンと結婚した。チャーチルは収入は多いものの、金銭に無頓着で最高級の贅沢品ばかりを集める浪費癖があったのでクレメンティーンが代わって家計を支えた[847]。チャーチルは公的にも妻を頼りにし、彼女の前で演説の予行演習をするのを習慣としたという[847]。, 夫妻は5子に恵まれた。1909年生まれの長女ダイアナ(英語版)、1911年生まれの長男ランドルフ(英語版)、1914年生まれの次女サラ(英語版)、1918年生まれの三女マリーゴールド、1922年生まれの四女メアリー(英語版) (のちソームズ男爵夫人)である[848]。, 長女ダイアナは南アフリカの富豪サー・ジョン・ベイリー准男爵(Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚したが、後に離婚して保守党の政治家ダンカン・サンデイス(英語版)と再婚した。しかし1960年に離婚した後、1963年に自殺した。ダイアナの自殺の時にはチャーチルも老衰しきって死を待つばかりだったので、娘の自殺を聞いてもさほど悲しんでいる様子はなかったという[849]。, 長男ランドルフは一時期庶民院議員も務めたが、基本的にはジャーナリストとして働いた[850]。父の影に隠れて目立たない人物だったという[849]。チャーチルの死後まもない1968年、後を追うように死去した[738]。彼の最初の妻パメラ・ディグビー(英語版)は男爵令嬢であり、社交界の華でもあった。ランドルフとの離婚後、名だたる著名人らと浮名を流し、元ニューヨーク州知事W・アヴェレル・ハリマンと結婚し、米国籍を取得。高額献金者として、政界に多大な影響力を持ち、1993年に駐仏米国大使に任ぜられた。なお、ランドルフとの離婚、ハリマンとの再婚後もチャーチル姓を名乗っていた[851]。パメラとの間の長男ウィンストン・チャーチル (1940-2010)(英語版)は1970年から1997年まで保守党選出の庶民院議員を務めた[852]。2人目の妻ジューン・オズボーンとの間の長女アラベラ・チャーチル (1949-2009)(英語版)は1954年に米ライフ誌の表紙を飾り、幼少期から注目を集め、チャールズ皇太子やスウェーデンのカール・グスタフ王子のお妃候補などと取りざたされたが[853]、1960年代末には反戦運動家、ヒッピーになり、注目された。グラストンベリー・フェスティバルの創始者の一人としても知られている[854]。, 次女サラは女優になり[847]、芸人ヴィク・オリバーと結婚したが離婚し、写真家アンソニー・ビューチャンプと再婚するも死別。さらに第23代オードリー男爵トーマス・トウケット=ジェソンと三度目の結婚をした[849]。, 四女メアリーは保守党の政治家クリストファー・ソームズ(英語版)と結婚している[849]。長男のニコラス・ソームズ(英語版)も保守党議員となったが、イギリスの欧州連合離脱に関する造反で党から除名された[855]。, チャーチルは家族に動物のあだ名をつけていた。サラは「のろま」という意味で「ラバ」、メアリーは子供の頃不器量だったので「チンパンジー」、妻クレメンティーンは「ネコ」だったという[428]。, チャーチルの弟ジョン・ストレンジの娘クラリッサ(英語版)はチャーチルの後任の首相イーデンに後妻として嫁いでいる[850]。, 妻の親族は波乱万丈な生涯を送った人が多い。妻の甥にあたるエズモンド・ロミリーと、妻の従兄第2代リーズデイル男爵デビッド・フリーマン=ミットフォードの娘たちミットフォード姉妹がいる。エズモンドは学生時代から共産主義者として鳴らし、「チャーチルのアカの甥」と呼ばれていた[856]。, ミットフォード姉妹の五女ジェシカも共産主義者で、エズモンドと駆け落ちし、スペイン内戦に左翼陣営で参加[857]。その後、アメリカへ移住し、大戦がはじまるとカナダ空軍に入隊してドイツ空軍と戦ったが、1941年11月末に北海上で戦死した。チャーチルからジェシカにエズモンドの戦死を伝えたという[858][859]。, ミットフォード姉妹の三女ダイアナはファシズム運動家となった。ダイアナは結婚していた貴族と離婚してイギリスファシスト連合指導者のオズワルド・モズレーと再婚したが、第二次世界大戦中にモズレーとともに投獄を受けた。, 四女ユニティはドイツへ飛び、ヒトラーとの関係が噂されるほどヒトラーの親密な側近となり、ドイツがオーストリア併合した時にはオーストリア人はみんな併合を望んでいるという手紙をチャーチル宛てに送ってきた。チャーチルは翻意することなく、「公正な国民投票が行われていたらオーストリア人はナチスの支配下にはいることを拒否したはずだ」と返信した[860]。彼女は英独開戦を阻止しようと努力していたが、開戦に至ってしまうと絶望して自殺未遂を起こした。その後イギリスへ戻されたものの、この時の傷がもとで後に死亡した[861][862]。, イギリスでは現在でもチャーチル人気は高く、2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では1位になった[863]。, また2016年から発行しているの5ポンド紙幣の裏面にチャーチルの肖像が使用されている[864](表面はこれまで通りエリザベス2世女王)、イングランド銀行総裁サー・マーヴィン・キングは「偉大な英国の指導者」と述べた[865]。, チャーチルはすでに政界に転じる決意を固めていたため、キッチナーに遠慮する必要がなかったのだと思われる, 中国人が自発的契約で南アフリカに来ていることを裏付ける材料として、中国人にとって中国本国で働くより南アフリカで働いた方が15倍も給料が高いという事実がある, この法律は国王の閣僚任免権に対して立法権の独立を守る意図で1705年に制定された法律である。国王の閣僚任免権が形骸化し、議会の情勢に基づいて首相に任命されることが慣例化していたこの時代にあってはほとんど意味のない制度と化しており、1929年になって廃止されている, 庶民院では保守党党首バルフォアが「内務大臣が自ら事件現場に赴くのは軽率」という批判を展開したが、チャーチルは「そう怒るなよ。面白かったんだから」と答弁したという, ただし英仏から独立しても、東西冷戦によりアメリカとソ連が影響下に置こうと進出してくるのが一般的だった, 『ウィンストン・チャーチル』(週刊100人No.21)、デアゴスティーニ、2007年10月21日、p10。, タムシン・ピッケラル・五十嵐友子(訳)『世界で一番美しい猫の図鑑』,2014年,p=162, “Brother Winston: Churchill as a Freemason”, http://www.mqmagazine.co.uk/issue-3/p-06.php, Pamela Harriman Is Dead at 76; An Ardent Political Personality, チャーチル英元首相、5ポンド紙幣に「偉大な指導者」(朝日新聞2013年9月2日閲覧), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ウィンストン・チャーチル&oldid=80125923, チャーチル「そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。」, 「まだ支配するつもりなのかな?」(1960年頃、「西暦2000年には女性が全世界を支配しているという予想について、どう思われますか?」という記者の質問に対しての回答), 「悲観主義者は全ての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者は全ての困難の中に好機を見いだす」.

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